第一章 運命的な協力者

第1話 失楽

「過労だね。倒れて当然だよ」


 大気に溶けたアルコール消毒液の香りが鼻腔を擽る白い病室。残暑も終息に向かいつつある快適な温度の空気が出入りする窓の前に立つ白衣の主治医がベッドの上に横たわる僕を見下ろし、呆れを含ませた声で診断結果を告げた。


「一ヵ月の残業が80時間に加えて、サービス残業が50時間? そこに通勤と退勤が一日一時間入るわけでしょ? しかも日勤と夜勤が一週間ごとに切り替わる、と。こんな奴隷みたいな働き方してたら、身体壊さないほうが異常だね」

「そこまで言うほどですか」

「ここまで言ってもまだ足りないと思うくらい」


 手元のクリップボードに固定されたカルテにボールペンの先端を走らせながら駄目押しの言葉を返した主治医に苦笑し、僕は肺を満たしていた空気を吐き出し天井を仰いだ。

 現在地である市民病院に運ばれる前の記憶は朧気でよく憶えていないのだが、目覚めた直後に主治医から聞いた話によると、どうやら僕は職場の工場で突然倒れてしまったらしい。僕が勤務している金属加工メーカーは一週間ごとに勤務時間が逆転し、今週は夜勤の週。記憶が飛んでいなければ、昨日は週に五日ある就業日の最終日。あと一日頑張れば二日間の休息日にありつけるはずだったのだが……僕の身体はそこまで持たなかったようだ。まさか仕事中に意識を失うことになるなんて、思ってもみなかった。

 ただ、こうして病院に担ぎ込まれた今になって考えてみると、今に至る前兆は出ていたのかもしれない。


「そういえば、一ヵ月くらい前から物が歪んで見えることがありましたね。仕事場の機械がこう、波打って見えるみたいな」

「症状は多分、それだけじゃないと思うよ」


 思い当たる節を上げると、主治医はカルテへの書き込みを続けながら言った。


「過労は他にも症状が出る。睡眠障害とか、摂食障害とか。心当たりは?」

「どっちもありますね。特に睡眠障害のほうが」


 主治医の挙げた二つの例、そのどちらも心当たりがあり、僕は内心で「医者って凄い」と感嘆の声を零した。

 特に睡眠障害に関しては、随分と前から悩んでいる。身体はとても疲れているのだが、ベッドで横になっても全く寝付くことができず、入眠までに相当な時間を要するのだ。一時間で入眠できれば良いほうで、酷い時は四時間近くも眠れない時間を過ごす。

 原因は音だ。誰もいない静かな暗い部屋で身体を横たえると聞こえてくる、工作機械が鳴らすエラー音と、刃物で金属を削る金切り音。それらが幻聴なのは理解している。音の原因は室内にはなく、長時間聞き続けた音が耳の奥にこびりついているだけなのだと、わかってはいる。

 けれど、それは確かに聞こえてしまうのだ。幻聴だと意識すればするほど、大きく聞こえる。そして僕の安眠を阻害してくる。疲労の回復を邪魔してくるのだ。

 しかも、例え幻聴を乗り越えて入眠できても三時間程度で起きてしまう。人間が一日に必要とする睡眠時間どころか、世界的にも少ないとされる日本人の平均睡眠時間の半分程度しかない。食欲も性欲も失ってしまったのは、この極端に短い睡眠が原因だろう。日に日に身体が壊れていく自覚は持っている。

 けど、どうしようもない。生きるためには、健康な身体を犠牲にしなくてはならないのだから。


「上司には相談とかしてる?」

「したことはありますけど、相手にされなかったです。皆同じ条件で働いているんだから、文句を言うなって」

「典型的なダメ上司か……」


 はぁ、と大きな溜め息を吐いた主治医に、僕は「仕方ないんです」と続けた。


「中小企業は何処も人手不足で、どれだけ性格が終わってる人でもいなくなると現場が回らなくなる。いる人間だけで業務を終わらせないといけないから、残業しないと仕事なんて終わらないんですよ。期日までに終わらせないと、上から大目玉をくらいますし。これまでにも過労で倒れたり、自殺した人もいますけど、結局何も変わりませんでした」

「改善しようとしないあたり、どれだけ酷い会社なのかがわかる。家族経営の会社?」

「はい。で、今の社長は二代目です」

「ああ、どうりで。何処の会社も二代目の社長は酷いとは言ったものだね」


 随分とストレートに物を言う人だな。

 主治医との会話の感想を頭に浮かべると、カルテの記入を終えた主治医はベッドの横に置かれていた円椅子に腰を落ち着けた。


「一先ず、しばらく休めば大丈夫だとは思うけど……今の会社にいる限り、また倒れることになると思う。というか、いつか死ぬよ? 転職考えたら?」

「わかってるんですけど、僕は高卒で学がないので。行けるとしても工場勤務だろうし、言ったらあれですけど、工場なんて何処も似たようなもんじゃないですか」

「今の会社よりも環境とか待遇がいいところは沢山あると思うけどねぇ。一度探して見たら?」

「……検討します」


 主治医の勧めに、僕はそう返答するに留めた。

 僕が転職に乗り気でない理由は幾つかあるが、最も大きな理由は学歴だ。以前、幾つかの転職サイトに登録したのだけど、好条件の求人は何処も大卒のみ。明確に表面化した学歴社会だ。学のない馬鹿はお呼びではないと、直接言われているような気がしてならなかった。

 大卒の何が偉いんだ。街で見かける大学生なんてまともに勉強もせずに学友と遊び惚け、バイトをして遊ぶ金を稼ぎ、他人に迷惑をかけるような飲み会をして無責任なセックスをしているだけじゃないか。十代から就労し、数多の税金や本来払う必要のない年金まで支払って社会に貢献している高卒が不遇な扱いを受けるのは間違っているだろうと、退勤途中に居酒屋の前で下品な笑い声を上げている大学生たちを見る度に思っていた。

 技術は発展したかもしれないけれど、とても生きづらく、息苦しい時代に生まれてしまった。自分の不遇される立場に肩を落とすと、主治医が僕に問うた。


「四乃森君は今……21歳か」

「はい。今年22歳になりますけど」

「若いね。ご両親は? 心配とかしてないの?」

「いやまぁ、その……」


 一瞬言い淀むが、別に隠すようなことでもないと考え、僕は主治医の問いに答えた。


「他界済みです。14年前に」

「え、二人とも?」

「はい。兄弟とか親戚もいないので、天涯孤独です」

「……」


 それを聞いた主治医は一瞬、両親の死因に対する好奇心が垣間見える表情を作ったけれど、すぐに自らの探求心を封じ込めて沈黙した。懸命だ。知りたい気持ちは僕にもわかるけれど、実際に聞くのはやめたほうがいい。きっと聞けば、後悔したと思う。安易に他人の過去を知ろうとしたことを。

 とても心地の良いものではないのだ。人によっては、不快感すら覚えるだろう。それだけ、僕の両親の死に関する記憶は悍ましさに満ちている。

 沈黙と静寂が気まずかったのか、主治医は話は以上だと言わんばかりに両手を膝についてゆっくりと立ち上がった。


「まぁともかく、君はしばらくの休息が必要だ。診断書を出しておくから、一ヵ月ほど仕事を休みなさい」

「一ヵ月、ですか」

「うん。傷病手当で基本給の3分の2の金額が支給されるから。楽しいことでもして、心身をリフレッシュするんだよ」

「……わかりました」


 僕の返事を聞き届けた主治医はそのまま、病室を去って行った。

 人の声が消えた空間に一人残された僕は、流れ込んだ空気によって揺らめく白いカーテンを注視する。布の擦れる音を鼓膜が捉え、揺れ動いたそれの隙間からは夜の終焉を知らせる濃紺に染まる空が見えた。

 

 楽しいって、なんだっけ。

 

 物心ついた頃には既に失っていた一つの感情に想いを巡らせながら、僕は目を覚まし始めた世界を眺め続けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る