第10話 新規依頼者

 ちょっとしたハプニングに見舞われながらも気分転換のお茶菓子を満喫した私と史輝は店を後にし、人の多い街中を歩いて事務所への帰路についた。店に対する評価は概ね満足。機会があればまた行きたいと思う程度には、私の中では高評価となっている。流石は高級店と言ったところだろうか。

 まぁ、最後のあれがちょっとだけマイナスな印象に繋がってはいるけれど、ウェイトレスもわざと濡らしたわけではないし、いつまでも引き摺るのも良くない。次もやられたら、もういかないかもしれないけど。

 歩きながら、私は服の裾に顔を近づけた。手渡されたタオルで飲み物は綺麗に拭き取ったとはいえ、布生地に沁み込んだ匂いは未だ健在。大分薄れたとはいえ、紅茶の香りが鼻腔を擽る。

 早く帰ってシャワーを浴びて、着替えたい。

 そんな欲求を覚えながら道を歩きつつ、私は隣を歩く史輝と先の出来事を振り返った。


「喫茶店の店長、相当焦った様子だったね」

「そうですね。こちらが思わず引いてしまうほどには、大慌てしていたかと」


 頷き、史輝はくすりと笑った。

 十数分前。私と史輝に飲み物をかけてしまったウェイトレスと共にやってきた店長を名乗る男性は、それはもう焦りに焦った表情をしていた。何度も頭を下げて謝罪を繰り返し、汚してしまった衣服の代金を支払うとも申し出た。

 粗相をした相手が傲慢な権力者であったのならば、それを当たり前として受け取るのだろう。それどころか、店の評判を下げるような仕打ちまでして。実際、小さなミスに激怒して酷いことをした権力者の話はあちこちで聞く。

 だけど、私たちは器が小さいわけではないし、酷いことをしようとも思っていない。汚れてしまった衣服は洗えば清潔になるし、私たちに負傷があったわけでもない。弁償を受け取るほどのことでもないと考えて、丁重に辞退した。大した被害を受けたわけでもないから、と。

 それになにより……ミスをしてしまったウェイトレスが史輝を見る目が、完全に恋する乙女のものになっていたので、私は謝罪などを早々に受け入れて喫茶店を立ち去りたいと思っていたから。あの店に長い時間滞在していると余計な面倒ごとが増える可能性が高かったので、早くに退店することができて、私はそこそこ満足している。

 振り返りを終え、私は史輝を見上げてお礼を言った。


「ありがとね。ご馳走様」

「おや。気づかれていないと思っていたんですが……」

「店の人たちは気づいてなかったと思うよ? でも、流石に私は気づいている」


 言うと、史輝は小さく肩を竦めた。

 退店時に店長から代金は不要と言われたのだが、史輝はこっそりとお金をテーブルの上に置いてきたのだ。あの様子では辞退しても「そんなわけには!」と向こうも引き下がらなかったと思うので、バレないようにこっそりと置いたのだろう。私自身、余計な施しを受けるつもりがなかったので、史輝の行為には賛同している。

 今頃、置いてあるお金に気づいた彼らはどんな反応をしているのか。少し気になるところではあったけれど……それを見るために態々戻るわけにもいかず、また今後もしばらくはあの店に行くことはないので、確認する術はない。

 個人的には、ちょっと慌ててくれていると嬉しいかな。

 小さな願望を胸に抱きつつ、私は歩道の端に植えられている街路樹の桜に咲く花を見上げた。


「見事に満開だね、桜」

「えぇ。気温的にも、絶好の花見日和です」


 史輝は足元に落ちていた花びらを一枚、拾った。


「こんな日は桜を見ながら団子を食べるに限る。どうです? 行き先を変更して、お茶の続きを」

「魅力的過ぎる提案だけど、流石にそろそろ仕事に戻りたいかな。匂いも気になるし、シャワー浴びたい」

「自分の匂いを過剰に気にするなんて……まるで乙女ですね」

「正真正銘の乙女なんですけど?」


 まるで私が乙女ではないような言いよう。目を細めたまま冷ややかな笑顔を向けると、史輝は「冗談ですよ」と微笑を浮かべ、私の髪に手を伸ばした。何を? と尋ねる前に離された彼の手には、一枚の桜の花びら。

 まだ散る時期ではないけれど、頭上からは幾つもの花びらが降ってくる。私の髪に落ちた花びらを、彼は取ってくれたらしい。

 指先で摘まんだそれを至近距離からまじまじと見つめながら、史輝は何処か儚さを感じる声音で言った。


「開花した桜はとても綺麗で美しい。ですが……少し、寂しくもありますね」

「寂しい? なんで?」


 よくわからないことを言うな。と理由を尋ねると、史輝は見つめていた花びらを捨て、頭上に広がる桜の天井を見上げて答えた。


「……この桜は、これ以上美しくなることがありません。どんなものでも同じですが、絶頂を迎えたものの先は、衰退のみ。しかも、桜の絶頂はとても短いですからね。あとは花が散るのみと考えると、とても寂しい」

「……」


 何となく、言いたいことがわかった気がした。

 これから成長し、さらに美しくなる余地のあるものを見るのは、確かに楽しみしかない。これからどうなるのだろうと、いずれ迎える絶頂の時を夢想すると胸が躍り、その時を待ち遠しく思う。成長とはつまり上昇。時間と共に美しくなっていく様は、例え過程だとしても尊いものだ。

 しかし、頂点に到達したものは下がる一方。それ以上に美しくなる余地はあらず、いつまでも美しい今が続いてほしいという、少しばかり寂しい願望を抱いてしまう。これから散っていくだけと考えると、数週間もすれば全ての花が散ってしまうと思うと、目の前にある満開の桜を見る感覚が少しだけ変わるのを私は実感した。

 この世界は栄枯盛衰。永続的に続くものなど存在せず、全てのものに終わりがある。なればこそ、今しか見ることのできない桜の絶頂を楽しむべきだ。

 そう考えた私は暫しの間足を止め、陽に照らされ風に揺れる桜を眺めた後、再び足を動かし帰路を進んだ。

 行きとは違う道、桜並木が続く少し遠回りになる街道を歩くこと、およそ二十分。


「ん?」

「誰でしょうね」


 視界の中に事務所が映った時、私と史輝はそれぞれの声を上げながら、同時に足を止めた。

 事務所の入り口前に、一人の男性が立っていた。

 紺色の紳士服に身を包んだ長身。頭にはシルクハットを着用しており、帽子の隙間から見える髪は明るい金に染められていた。髪の色を含めた装いは、巷で最近流行している外国風のものだ。良く言えば近代的、悪く言えば浮ついているように見える風貌。横から見た顔立ちは……まぁ、それなりに整っているほうだろう。無論、史輝の前では色褪せて見えるが。


「史輝の知り合い?」

「いえ。僕の知り合いにはあんな似非紳士はいませんよ」

「そ、そっか……」


 何、その返答に困る解答。あの青年の第一印象が良くないことだけは伝わってくる。まぁ、私も概ね史輝と同じような印象を持っているけど。浮ついた風貌の異性は、あまり好きではないから。

 と、そこで事務所前に立っていた男性が私たちに気が付いたらしく、彼はこちらに歩み寄ってきた。そして開口一番、確認。


「失礼。魔骨探偵事務所の関係者、でよろしいかな?」

「え? あ、はい。そうですけど……貴方は?」


 若々しく、言葉の端々から自分への自信が伝わってくる。加えて、何処となくこちらを威圧し、見下すような声色。

 初対面の相手に敬語を使わないあかり、透花様のように礼節を弁えている者ではなさそうだ。

 警戒と僅かな嫌悪感を抱きながら私が問うと、紳士服の彼は自分の胸に手を当て、自らの名前と身分を告げた。


「申し遅れた。私は薬師院大志やくしいんたいし。薬師院子爵家の次男だ。まぁ、もうすぐ五百旗頭伯爵家に婿入りすることになるが……今はこう名乗らせてもらおう」

「五百旗頭? ……ということは」


 青年が正体に見当がついた私が目を見引くと、眼前の彼は得意げな表情を作り、自慢するように言った。


「君たちも知っているだろう。あの五百旗頭透花様の──婚約者だ」


 彼の自己紹介を聞き、私と史輝は互いに顔を見合わせた。

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