第三節 未来の夢

第二十八話

 即位後は、これまでになく慌ただしかった。


 東宮御所から、御所への引っ越しもあった。

 東宮御所は紫微宮しびのみやの東面に位置していたが、今度は北面に位置する御所へ移った。「天子南面す」という言葉があり、天皇の居場所は南を向く北と決まっていたのだ。

 儀式を行う大祭殿も、舞台の上に立つと南を向くようにしつらえてあった。

 御所に移った嘉乃よしのは、あの庭が遠くなってしまい、とてもさみしい気持ちになった。

 せめて、あの庭を散歩出来たら。あの四阿あずまやで座ることが出来たら。

 でもそれは叶わぬ夢だった。


 部屋から見える景色が変わって、嘉乃は東宮御所の庭を思って、ほんの数ヶ月前のことを遠く感じ、懐かしく思った。

 初瀬はつせは元気にしているかしら。

 別れを言うことも出来なかった。

 あれだけ怒られたけれど、女官頭にょかんがしら大滝おおたきですら懐かしかった。

 めあわしの儀を行ってのち、東宮御所の奥の間に姿を見られないように、ひっそりといた。それでも、かつての同僚の気配が感じられてなんとなく安心出来た。即位に際して人の異動を行い、「嘉乃」を知っている人は配置換えになったり、或いは紫微宮しびのみやから離れた場所での仕事となったりした。初瀬がどこに行ったのかも、嘉乃は知らなかった。



 嘉乃のもとに、清原王きよはらのおおきみが来た。

嘉子かこ

清原王きよはらのおおきみ

 早く夜が来るといい、と嘉乃は思った。

 夜、二人きりになれれば、「嘉乃」と呼んでもらえる。


 清原王きよはらのおおきみは忙しい中も、嘉乃を気遣い、出来る限り嘉乃の元に顔を出してくれた。たいていはほんの短い間だったけれど、そのことで嘉乃がどれほど安心出来たことか。

嘉子かこ、顔色がよくないようだが」

「……まだ気持ち悪くて」

「横になっているがよい」

「はい」


 嘉乃の妊娠は重く、体調はあまりよくなかった。そのことは清原王きよはらのおおきみを不安にさせたが、出来る限りの文字の力で加護を与えることで、また御典医ごてんいからこのように体調が悪くなるのはよくあることだと聞くことで、少し安堵するのだった。


 清原王きよはらのおおきみが心配していたのは、妊娠のことだけではなかった。

 嘉乃は夜にふと目を覚まして、不安気な顔をしていることがたびたびあった。どうしたのか聞いても、曖昧に笑うか「夢を見て」と言うばかりで、嘉乃の不安を晴らしてあげられぬことが歯がゆかった。

 そうでなくとも、心細い思いをさせているのに、と。

 昨日の夜も嘉乃は夜中に目を覚ましていた。

 笑った顔がさみしげで、清原王きよはらのおおきみは嘉乃をぎゅっと抱き締め、優しい口づけをした。

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