第三章 離れることなど、どうして出来よう?

第一節 嫌われたくなかったんだ

第十六話

 結局、嘉乃よしのは、夜こっそりと抜け出して四阿あずまやに向かった。今夜も月がきれいだった。昨日の夜は、世界が自分たちを祝福しているように感じたし、月の光さえ祝祭のように感じたけれど、今日は悲しみの涙に見えた。

 既に、月原――清原王きよはらおうは来ていた。


「嘉乃」

 彼は何も知らずに、嘉乃に手を伸ばしてきた。

 いつもなら、その手をとって、抱き締めてもらうのに。

 嘉乃は手を取ることが出来なかった。

 だって、この方は皇太子さまだから。ふじ氏の聖子さまとご結婚なさる方。いずれ天皇に即位なさる方。

 ……本当は。

 本当は、もうここに来てはいけないということが、苦しいくらい分かっていた。だけど、どうしても最後にひとめ、逢いたかった。


 嘉乃の頬を、涙が伝った。

「嘉乃?」

 清原王が不思議そうな顔をする。

「――申し訳ありません」

「嘉乃……」

「もう、お会い出来ません。だって、あなたは皇太子さまで、婚約者もいらっしゃるのですから」

 でも、どうしても、ひとめ逢いたくて。


「嘉乃!」

 嘉乃は身をひるがえして去ろうとした。

 しかし、腕を掴まれ、去ることは叶わなかった。

 後ろから、強く抱き締められる。

 清原王の唇が嘉乃の耳元に当たる。

「――すまない、嘘をついて。嘉乃が離れていくのが怖かったんだ。――嫌われたくなかったんだ」

 清原王の息が、嘉乃の耳にかかった。言葉が心の奥まで、届く。その言葉に嘘はないと思った。だけど。

「でも、もうお会い出来ません。だって」

「嘉乃」

 清原王はいつにない強い力で嘉乃を抱きすくめ、決して離さなかった。そして、そのまま嘉乃を抱え、庭の奥へと移動しようとした。


「月原さま――皇太子さま!」

「嘉乃、行かないで欲しい」

「だけど」

「嘉乃――愛している」

 悲しいほど、清原王の気持ちが嘉乃に伝わってきた。

「でも、身分が違い過ぎます。あなたには、聖子さまがいらっしゃいます」

 そのとき、ふと清原王の力が緩んだので、嘉乃は清原王の腕からするりと抜けて駆け出した。


「嘉乃!」

 清原王の声が夜に響く。

 嘉乃は愛しいその人から逃げた。

 逃げることが正しいことかどうかも分からず、ただ逃げた。

 髪が後ろになびく。着物の前がはだける。

 夢中で逃げていたら、庭の奥へ奥へと進んでいた。

 もうすぐ、初めて会った場所だ、と思ったら、また涙が浮かんだ。

 ――どうして最初に気づかなかったんだろう? どう考えても高貴な方なのに。

 手で涙を拭って、一瞬前が見えなくなったそのとき、嘉乃は、身体が傾き激しい痛みを感じ、同時に全身が濡れたのが分かった。


 目の前に月があった。

 満月から少し小さくなった月。

 今日も月がきれいだった。

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