第十五話

 そんなわけで、嘉乃よしの初瀬はつせと一緒に、皇太子がお通りになる予定の濡れ縁が見える場所にいた。庭木に隠れてこっそりと。初瀬によると、皇太子さまをひと目見たい! と思う女官は多く、みな時間や場所を分散してこっそりと見ているとのことだった。


「皇太子さま、人気があるのね」

 嘉乃はしみじみと言った。

「当たり前よ! お優しくて、しかも最近の天皇家の中ではお力が強いとのことでしょう。みんなとても期待しているのよ」

 確かに、世界の不調回復に対する期待も高かった。

 嘉乃は、文字の能力が高い上に、下々の人間にも気を使える高貴な人間とはどんな方なのだろう? と思い、お顔を拝見したいという気持ちが起こった。


 初瀬と一緒に、嘉乃は庭木の陰から皇太子たちが現れるのを待った。

 ほどなくして、人の気配がした。

「もうすぐよ!」

 初瀬が興奮を隠しきれない様子で言った。

 皇太子付きの側近が現れた。厳しい目つきの男性だった。


 そのあとに現れたのは――


 ――月原さま!


 それは紛れもなく、夜ごとに逢っている月原だった。

 あの優しい目元も、嘉乃に口づけをして「愛している」と言った唇も、指も手も、さらさらと流れる髪も――嘉乃がよく知っている、月原その人だった。


 嘉乃は立っているのがやっとだった。震えが足元から沸き起こり、呼吸が出来なくなりそうだった。

「皇太子さま! あの方が!」

 初瀬が隣で言う、その言葉を遠くで聞いていた。

 月原さまが、皇太子さま……!

「なんて、素敵なのかしら」

 月原さまが口づけをして、そして。

「やっぱり、すごくお優しそう」

 優しくわたしを触って。

「――あ! あれがふじ氏の聖子さまかしら?」

 見ると、豪奢な衣装を身に纏った煌びやかな女性が、現れた。

 ――皇太子さま、婚約者が決まったらしいわよ。

 名木なぎの台詞が蘇る。

 ――皇太子さま、婚約者が決まったらしいわよ。

 婚約者。

 あのお方とめあわしの儀をして、そして――


 昨夜。

 嘉乃、愛しているとあの人は言った。

 本当に愛しているんだ、とも言った。

 口づけをした。そして、それから二人でいっしょに高いところに行って。

 でも、あの人は皇太子さまだったのだ。

 そして、藤氏の聖子さまとご結婚されるのだ。

 それが皇太子の立場として、どうにも避けられないことを、嘉乃は分かっていた。


 月原さま――いいえ、皇太子さま。

 初めて会ったとき、「嘉乃は、ここに来てまだ日が浅いの?」「仕事は慣れた?」「困ったことはない?」と聞かれた。……どうして気づかなかったんだろう?

 庭で迷っていたとき、手を引いて歩いてくれた。

 わたしはただの、下級の女官なのに。

 そうだ。

 あの、なめらかな手。

 あれは、武官の手ではない。下働きをしているものの手ではない。……どうして気づかなかったんだろう?

 ――会いたい、と言ってくれた。

 たくさんお話をして。

 どうしようもなく惹かれて、夜ごと逢いに行った。

 わたしに笑いかけてくれた。

 優しく、抱き締めてくれた。

 口づけをして、そして――


「嘉乃? どうしたの? 真っ青よ」

「――あ、うん」

 涙を流していないのが不思議なほどだった。

「皇太子さま、素敵だったね」

「……うん」

「とてもお優しそうで」

「……うん」ほんとうに優しいのよ。

「今度は声もお聞きしたいなあ」

「……うん」声も素敵なのよ。落ち着いた、優しい耳に残る声。

「藤氏の聖子さまとお似合いだったわね。お姫さまよねえ。素敵な衣装だったわ」

「……うん」

 彼が、あの豪奢な衣装を纏ったひととめあわしの儀を行うのだと思ったら、息が止まりそうだった。

「――嘉乃?」

 世界がぐらりとして、嘉乃はそのままそこに座り込んでしまった。

「嘉乃、だいじょうぶ?」

「――なんでもない」

「なんでもないこと、ないよ。ねえ、部屋に行こう。わたし、大滝さまに伝えて、今日はお休みにしてもらってくるから」

「……うん」

 とても、働けそうになかった。


 深い深い、光の届かない穴の中にすっぽりと埋まってしまった、と嘉乃は思った。

 ――どうしたらいいのか、まるで分からなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る