第四節 ……まさか、あの方は

第十四話

「ねえねえ、何かいいことあったの?」

 初瀬はつせが言って、嘉乃よしのは耳まで赤くなった。

「あ、あの」

「――昨日、帰るのが遅かったわね」

「う、うん」

 嘉乃が真っ赤になっていると、初瀬は「ああ、いいなあ」と言って笑った。「わたしも恋人が欲しいなあ」


 嘉乃は昨日のことを思い出し、幸せな気持ちでいっぱいになり、自然と笑みがこぼれた。思い浮かべるだけで、愛しい気持ちで満たされる。唇も手も何もかも、愛と優しさで満ちていて、嘉乃を、どうしようもないほどの幸福感で覆いつくした。


 嘉乃が満ち足りた気持ちで仕事をしていると、初瀬が言った。

「そう言えば、今日は皇太子さまを拝見するこが出来るかもしれないわよ?」

「へえ」

「……全く、もう。自分の恋人のことしか頭にないのね。皇太子さまのお姿なんて、なかなか拝見出来ないのよ? わたしたち、下っ端はさ」

 初瀬は笑いながら、言う。嘉乃はふふふと笑いながら、「それはよかったわ」と言った。

「――もう、本当は恋人のことしか頭にないくせに! ……あのね、皇太子さま、もうすぐめあわしの儀をなさるでしょう?」

「うん」

 嘉乃は故郷での名木なぎの話を思い出していた。確かふじ氏のお姫さまと婚約された、とのことだった。

「それでね、その準備のために藤氏の聖子さまがいらっしゃるの」

「へえ」

「わたし、どうしてもお二人を拝見したくて、どこをお通りするのか調べたのよ!」

 力強く言う初瀬がおもしろくて、嘉乃はくすくすと笑った。


「あ、もう、ばかだと思っているでしょう」

「思ってないわよ。かわいいな、と思って」

「もうもう! ――あのね、憧れているだけなの」

「憧れ? 皇太子さまに?」

「そうよ」

「でも、お会いしたこともないんでしょう?」

「そりゃそうよ。雲の上の方だもの」

「でも、憧れるの?」

「そう。……だって、お優しいのが、分かるもの。働いていて」

「それはそうかも」


 東宮御所の仕事環境はとてもよいものだった。紫微宮しびのみやの、他のところよりもずっと。特に天皇御所は大変そうだった。東宮御所の居心地がいいのは、皇太子の優しいお人柄のおかげだと、みなが思っていて、皇太子の人気は高かった。


「絶対に素敵な方だと思うの! ひと目お見かけ出来たら嬉しいの」

 初瀬はうっとりとそう言った。

「お見かけ出来たらいいわね」

「嘉乃もいっしょに行ってよ!」

「え?」

「だって、一人じゃ、心細いもの。ちゃんと、一緒に休憩時間にしておいたから!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る