第十七話

 四阿あずまやに現れた嘉乃よしのの顔を見たとき、清原王きよはらおうは、ああ、ばれてしまったと思った。むしろ、これまでばれなかったのが奇跡だったと。

 ――終わりにしなくてはいけない。

 そう思って、ここに来た。

 だけど、嘉乃の顔を見ていたら、愛しさが込み上げてきて、とても終わりにすることなど、出来なかった。走り去ろうとする嘉乃をきつく抱き締める。


 嘉乃のぬくもりをかおりを感じながら、清原王はどうしても離したくなくて、そのまま嘉乃を抱えて、いつもの建屋に行こうとした。愛している。

 この感情が愛でなくて、なんだと言うのだろう?


 頭では分かっている。

 今日もめあわしの儀についての打ち合わせがあった。ふじ氏の姫とも会った。

 だけど、気持ちは嘉乃に向かっていて、何一つ頭に入ってこなかった。

 藤氏の姫が悪いわけではない。嫌いなわけでもない。

 嘉乃じゃない、というだけだ。

 嘉乃でなくては、全く意味がないのだった。

 他は誰も、みな同じだった。

 藤氏の、文字の力がある娘と結婚しなくてはいけない。分かっている。分かっているんだ。頭では。


 だけど、心がついていかない。

 嘉乃。

 皇太子の立場だ。婚約者もいる。めあわしの儀の準備も進んでいる。

 でも。

 嘉乃でなくては駄目なんだ。

 そばにいて欲しい。ずっと。

 行かないで。

 愛している。

 そのとき、嘉乃が身分が違い過ぎると言った。

 身分?

 身分ってなんだ?

 ――皇太子という身分を捨てればいいのか?

 一瞬、気が緩んだ。


 そのとき、腕の中から嘉乃がするりと逃げて行った。蝶のようにひらひらとゆく。

「嘉乃!」

 嘉乃は庭を駆けてゆき、そして初めて会った場所に近づいたとき、ふいに姿を消した。

 遣水やりみずに落ちたのだとすぐに分かった。



 清原王は、遣水に落ちた嘉乃を抱き起した。

 それから、「乾」と書いて唱えた。やわらかい光が嘉乃を包み込んで、服と髪を乾かした。

 清原王は嘉乃の足に大きな擦り傷が出来て血が出ていたのを見て、「治癒」の文字を書いて唱えた。

 ぽわっと光が浮かび、嘉乃の傷口へと吸い込まれていき、傷はきれいになくなった。

 そして、辺りには、白い小さな花がひらひらと舞っていた。


 嘉乃は、その白い小さな花を手にとった。

「ユキヤナギ……」

「――私の、象徴花しょうちょうかだから。嘉乃には隠していたから飾っていなかったけど、いつもは髪に挿しているんだよ、ユキヤナギを」

 嘉乃はじっと、手のひらの上のユキヤナギを見つめた。

 それから、清原王をまっすぐに見た。

「――あなただったのね」

 ユキヤナギの小さな白い花が、二人の周りを取り囲んで、円を描くように舞った。

 嘉乃の瞳から、涙がひと滴、零れ落ちた。


 嘉乃はもう一度、言った。

「あなたが、ユキヤナギの人だったのね」

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