第二章 惹かれずにいられない

第一節 夜ごとの逢瀬

第八話

 あのときの少女に、嘉乃よしのは似ていると、清原王きよはらおうは思っていた。



 五年前、清原王は紫微宮しびのみやから出て、天皇家が所有している山荘に行ったことがあった。


 生真面目な清原王にとって、次期天皇候補としての重圧はとても苦しく、真面目に取り組んでいる分、ときどき逃げ出したくなるのだった。十五歳だった当時、成人の儀が目前に迫り、十六歳になったとき、果たして能力が発現するのかという不安も抱えていた。


 清原王の父親であり天皇である白壁王しらかべのおおきみも、先代と同じように、弱い力しか持たなかった。ここ何代か、天皇家の能力は落ち込んでいて、世界は荒れていた。災害は頻発し天候不順が続き、人心の不満は募っているように見え、それも清原王にとっては心痛いことであった。もし、自分に能力がなかったら? あったとしても微弱だったら? 清原王は力の不足を補えるよう、学べることは学んでおこうと、必死に努力をしていた。


 父である白壁王しらかべのおおきみは力が弱かったことに加え、病弱でもあった。実際、力の弱い天皇も続いたが、病弱で短命な天皇も続いていた。

 山荘に行くことになったのは、白壁王しらかべのおおきみの静養が主な目的だった。山の緑の中、人の少ない静かな場所で政務から離れしばらくゆっくり過ごすことで、病状が回復するのを期待したのだ。


 清原王も紫微宮しびのみやから離れて山荘に着いたら、ほっとしたような気持ちになった。普段は厳しい側近の真榛まはりも「しばらくごゆっくりなさってください」と言うので、清原王は晴れやかな気持ちで過ごした。

 山荘を抜け出して――真榛まはりをまいて――山の中を散策したりもした。

 美しい泉とそばに群生する花畑を見つけたのも、そんなふうに一人で出かけたときのことだった。一人で泉を見たり花を見たり、そこに飛んで来る鳥や蝶などの虫たちを見ていると、苦しさが遠のくように感じた。


 あの日も、一人で泉に来ていた。

 鳥が水辺で遊んでいて、飛び去った方を見たら、一人の少女がいた。清原王よりも少し年下に見えた。

「こんにちは! あなた、どこから来たの? この辺の人じゃないわよね」

 少女はそう言って笑うと、清原王の隣に来た。

紫微宮しびのみやから」

「そう! 都から来たのね」

 少女は笑った。まだ幼さを残しているけれど、紫微宮しびのみやでも見たことがないほど、美しい娘だと、清原王は思った。


「ねえ、この泉、きれいでしょう? お花も!」

 清原王が黙っていると、少女は花を摘み始めた。そして、花束を作り、自分の髪を結っていた朱色の紐を外して花束をまとめた。

「はい」

 少女は出来上がった花束を清原王に差し出した。

「え?」

「あげる。――なんだか、疲れていそうだから」

「……ありがとう」

 清原王は花束を受け取った。


 ふいに、涙がこぼれた。

「どうしたの? 何か、嫌なことがあるの?」

 清原王は首を振った。

 泣き顔を見られるのが恥ずかしくて、清原王は下を向いた。

 少女は清原王の隣に座ると、清原王の頭を撫で、黙って、ただ一緒にいてくれた。

 清原王はなかなか涙を止めることが出来なかった。

 名前も知らない、初めて会った少女の体温を優しく感じていた。


 自分は、この子を、この子が住むこの世界を豊かに出来るのだろうか。

 ……真澄鏡まそかがみの前に立ったとき、象徴花しょうちょうかが降って来るだろうか。弱い力だったらどうしたらいいのだろう?


 清原王の思考が暗く逡巡していたとき、少女が言った。

「ねえ、ないしょなんだけど、枇杷、食べる?」

 少女は橙色の実を差し出した。

「あのね、食べると元気が出ると思うの。食べて?」

 清原王はためらった。

 なぜなら、いま、食糧は充分ではないはずだったからだ。そしてその責任は天皇家にあったからだ。

「でも」

「ないしょよ」

 少女はそう言って、清原王の手に枇杷の実を一つ渡した。

「食べよ?」

 少女はもう一つの枇杷の皮を剥いた。それを見て、清原王も枇杷の皮を剥いた。少女が口にしたのを見て、自分も口にした。甘さと果汁が口の中に広がった。

「おいしいね。でも、種が大きいのよね」

 少女は器用に種を避けて食べ、最後に「種は撒いてみよう」と種を大切そうに手のひらに握った。

 


 あのあと、お互いに名前も名乗らず別れてしまった。清原王は名前を聞けばよかったと、ずっと後悔していた。あのときの朱色の紐も枇杷の種も、ずっと大切にしまってあった。


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