第四節 月光のもと

第六話

 嘉乃よしのは困っていた。

 迷子になってしまったのだ。

 湯上り、庭を散歩してから帰ると初瀬に言い、広い庭を一人散歩していたら、帰り道が分からなくなってしまったのだ。夜見える景色は昼間とは違って、自分の居場所がどこなのか、さっぱり分からなくなってしまった。月の光だけでは、影が濃くて方向感覚がなくなってしまうのだった。

「どうしよう。どこから帰れるのかしら」

 嘉乃は遠くに見える屋敷を目にしつつ、どうしたらあそこに行けるのか途方に暮れていた。知らず、庭の奥に来てしまっていたらしい。


「どうした?」

 ふいに人の声が聞えて、嘉乃は驚いてかたまってしまった。「誰?」

 樹木の影から、人が現れた。嘉乃より少し年上に見える男性だった。その人は、月光に照らし出されて、優しげな瞳で嘉乃を見た。

「どうしたのだ?」

 彼はもう一度、言った。

「あの、迷子になってしまって」

「……東宮御所のものか?」

「はい、あの、散歩していたら、迷ってしまって」

 嘉乃がそういうと、彼はくすくすと笑った。あ、その笑顔、好きだ、と嘉乃は思った。


「こっちだよ。案内してあげよう。――名前は?」

嘉乃よしのです」

「嘉乃。……私は、――月原つきはら、という」

「月原さま」

「暗いから」と月原は嘉乃の手を、優しく握った。


 嘉乃はその手の滑らかさとあたたかさに息が止まりそうな気持ちになった。

 きらきらと銀色の光が降る中で、嘉乃は月原と手を繋いで歩いた。妙齢になってから、こんなふうに異性と手を繋いだことのなかった嘉乃は、迷子になった不安も忘れて、恥ずかしいような嬉しいような、胸の高鳴りを感じていた。


「危ない」

 ぼうっとして歩いていたら、手を引かれた。

「そこ、遣水やりみずがあるから気をつけて」

 手を引いてもらえなかったら、水の中に落ちていたかもしれない。

「あ、ありがとうございます」

 嘉乃は恥ずかしさでいっぱいになりながら言った。

 月原はくすりと笑うと、「どういたしまして」と言った。そして、嘉乃と繋いだ手を引き寄せ、距離を縮めて歩くようにした。


「嘉乃は、ここに来てまだ日が浅いの?」

「はい」

「仕事は慣れた?」

「はい、だいぶ慣れました」

「よかった。……困ったことはない?」

「ありません。……迷子になったけど」

 嘉乃の言葉に月原が笑い、それから嘉乃も笑った。繋いだ手に、力が込められ、嘉乃も握り返した。


「ほら、そこの四阿あずまや、分かる?」

「分かります。ここからなら、帰ることが出来ます」

 嘉乃がそう言って帰ろうとすると、月原は嘉乃の手を引き寄せ、「もう少し、四阿あずまやで話をしたい」と言った。嘉乃は顔が赤らむのを感じながら、「はい」と答えた。


 月光が二人を包み込んでいた。

 群青色の空と月光と、そして星明りのもと、嘉乃は月原と並んで座って、他愛のない話をした。

 楽しかった。

 月原は優しく、嘉乃の話を聞いて、相槌を打ったり、また別の話に発展させたりした。月原は博識で、嘉乃が知らないことを嘉乃に分かりやすいように話して、嘉乃を楽しませた。


 嘉乃は月原の顔を見ながら、どうしてこんなに惹かれるのだろう? と思った。初めて会った人なのに。瞳がとても優しげで、笑った顔はどこかさみしげで、嘉乃の心を捉えて離さなかった。

「明日、また会える? 同じ時間に、ここで。――会いたい」

 別れ際、月原は思いつめたような顔でそう言った。

 嘉乃がこっくりと頷くと、月原はほっとしたように笑った。

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