第五話

 嘉乃よしのは家族との別れを思い出していた。


「嘉乃。身体に気をつけて」

 母は涙ぐんでいた。

「うん、お母さん」

「お姉ちゃん! お休みの日には帰って来てね」

 末っ子の妹が愛らしく言う。

紀乃きの。わたしの代わりに、ちゃんとお手伝いしてね」

「うん!」

垂水たるみは紀乃のお兄ちゃんだから。紀乃をよろしくね。お父さんとお母さんも」

「分かってるよ」

 垂水はそっぽを向いているけれど、その目には涙が滲んでいた。紀乃は、弟も妹も愛しくて、ぎゅっと二人を抱き締めた。

「じゃあ、行くわね」


 嘉乃は顔を上げ、最後に父親を見た。父には目で挨拶をした。父も目で返した。

 だいじょうぶよ、お父さん。

 嘉乃はにっこり笑うと、手を大きく振り、くるまに乗った。俥は橘氏の特別なはからいで用意されたものだった。俥を見て、嘉乃の父親は複雑な表情をした。その表情に、嘉乃は少し不安になったがすぐに笑顔を見せ、また家族に手を振った。俥の窓を開け、嘉乃は家族が小さくなるまでずっと見ていた。ぶっきらぼうにしていた垂水が走ってずっと追いかけてくるのが見えて、嘉乃は涙を流した。「おねえちゃん!」という垂水の声が小さく聞こえた。



「嘉乃?」

初瀬はつせ

 一つ年上の同僚に声をかけられ、嘉乃は現実に引き戻された。

 ここは紫微宮しびのみやの東宮御所だ。

 あまりにも壮麗で壮大で、嘉乃は圧倒されていた。建物も美しいけれど、庭も広く美しく、緑を愛していた嘉乃は休み時間は庭を散歩するのを常としていた。しかし今は仕事中だ。


「どうしたの、ぼんやりして」

「うん、家族のことを思い出していたの」

「そうかあ。……さみしいわよね。わたしも、家を離れて来たときはさみしかったわ」

 初瀬は嘉乃より少し前に東宮御所に来ていた。

 二人でしばらくそのまま、庭を眺めた。

 緑が美しく花も咲き乱れ、遣水やりみずの水も清らかに澄み、そこここに鳥や小動物の気配があり、なんとも心落ち着く風景だった。


「じゃあ、仕事に戻ろうか」

「うん」

 嘉乃は、東宮御所で下級の女官として働いていた。洗濯や掃除が主な仕事で、取り立てて大変なことはなかったが、やはり生まれ育った地が懐かしく思われた。父や母、弟や妹との暮らしをあたたかく思い出すことが多かった。名木なぎと山菜を採りに行ったことも、山からの眺めも何もかもが、まるで遠い過去のことのようだった。



 東宮御所は、嘉乃には不思議な場所でもあった。

 文字の力がいろいろなところで使われていて、例えば、夜も文字の力によって灯りがともされていた。その、燃えない橙色の光は優しく、暗闇にやすらぎを落としているように感じた。手をかざすと水が出て来る仕掛けもあったし、掃除はするけれど、基本的に文字の力で御所全体が清浄に保たれていた。


「嘉乃、湯あみに行こう」初瀬が言う。

「うん!」

 嘉乃が驚いたのは、温泉が御所内にあることだった。

 嘉乃が生まれ育った地にも温泉はあったが、あくまでもそれは天然のもので山の中にあった。でもこの御所内の温泉は文字の力によって、常時温かいお湯がためられているのだ。時間を区切り、交替で入ることが出来た。温泉に入ると、疲れがとれる。


「どう、仕事は慣れた?」

 一緒にお湯につかりながら、初瀬が言った。

「うん、だいぶ慣れたかな?」

「よかった! 最初は不安だったでしょう」

「うん」

「わたしも不安だった! でも、意外に働きやすいわよね」

「うん、ほんとうに」

 仕事はしやすく、何より働いている人たちがみな、優しかった。


「皇太子さまの清原王きよはらおうがお優しい方だからだと思うのよ。清原王にはお会いしたことある?」

「ないわ。お見かけしたこともないの」

「……実は、わたしもないのよ」と初瀬は笑って「まあ、わたしたち下っ端はなかなかお目にかかることは出来ないわよね」と言った。そして、「でもお優しいのは間違いがないわよ」と真面目な顔で言った。

「うん」


 嘉乃はこれまで見聞きした清原王についての評判を思い返した。そのどれも、清原王の人柄のよさや優しさを表すものだった。働き心地のよさも、清原王の意向によるものだと思われた。

「この仕事、いいわよ。仕送りも出来るしね」

 初瀬はにっこり笑う。嘉乃も笑い返した。

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