第三節 紫微宮へ

第四話

嘉乃よしの、話がある」

 父親に改まった物言いをされ、嘉乃は少し緊張しながら、父親の前に正座をした。

「はい」

たちばな本家のご当主、三人みひとさまからのご命令だ。嘉乃、鳴鳥野かんなきの紫微宮しびのみやへ行き、女官として働きなさい」

「え? どうして?」


 紫微宮しびのみやは、都である鳴鳥野かんなきのきょうにある、政治が執り行われる宮だ。天皇や皇太子の御所や様々な役所などがあった。


「……私にも分からない。三人みひとさまのお考えがあってのことだろう。お断りすることは出来ない」

「そうなの……。紫微宮しびのみやのどこ?」

紫微宮しびのみやの東宮御所だ。皇太子の清原王きよはらおうの女官だ」

「東宮御所、皇太子さま……」


 嘉乃は名木なぎとの会話を思い出していた。あのときは、皇太子さまなど、お目にかかることすら、一生ないと思っていたのに。皇太子さまが住まう東宮御所で働くことになれば、お姿をお近くでお見かけすることもあるかもしれない。


「大変だと思うが、……頑張って欲しい」

 嘉乃の父はそう言って頭を下げた。

「大丈夫よ、お父さん。わたし、きっとちゃんと出来るわ」

「嘉乃……」

 嘉乃の父は嘉乃の手をぎゅっと握った。顔は下を向いていたから、表情は分からなかったが、父の震える手を見て、嘉乃は、父は泣いているのかもしれない、と思った。


 *


「それで、うまく行ったのか?」

「は! 東宮御所に女官を一人入れさせることが出来ました」

「そうか……」

 橘氏当主の三人みひとはほうっと安堵の息を吐いた。

「……益子ますこの目が悪くなければな……」

「そうですね。益子ますこさまはふじ氏の聖子せいこどのよりも、よほど力は強いかと思われます」

 三人みひとの側近である角島つのしまは言った。

「残念だ、まったく。目のことさえなければ、益子ますこを東宮妃に出来たものを」


 益子ますこ三人みひとの長女で東宮妃に相応しい年齢であり、またきょうだいの中で唯一文字の能力が発現しており、その力は強かった。しかし、益子ますこは幼いころから目が悪く、今ではほとんど見えていなかった。


「しかし、益子ますこさま以外、三人みひとさまの後を継ぐ者はおりません」

「そうだな。……全く、困ったものだ」

 橘氏に生まれる能力者は年々減っており、三人みひとの子どもたちの中で能力を持っているのは目の悪い益子ますこのみだった。当主となるのは基本的には文字の能力がなければならなかった。


「――まあ、いい」

「うまくいくとよいですね」

「そうだな。……あの、嘉乃よしのという娘は、お前の言う通り、確かに美しいようだ。遠目からちらりと見ただけだが」

「美しいと評判でして。確かめに行ったところ、驚くほどの美しさでしたので、これは、と思いまして」

「……なんとか、清原王きよはらおうの目にとまるといいのだが。清原王は二十歳、嘉乃は十八歳。年頃もちょうどよい。側女そばめとはなれずとも、子を成せば我が橘の力となる。いっそ、天皇である白壁王しらかべのおおきみでもいいのだが。とにかく、天皇家の血を橘に入れたい」


「あの美しさですから。天皇よりは皇太子の方がお力があるとのことですから、清原王の目にとまる方がよろしいかと」

「そうだな。……もともとは、橘と藤は並び立つ二大氏で、六家りっかの中でも強い立場であったのに、どうしてこんなに藤氏に押されてしまったのか。……皇太子妃も藤氏の聖子に決まってしまったし。このままではますます追いやられてしまう」


 三人みひとはそこで言葉を切って、濡れ縁から外に目をやった、

 夜空には満月手前の月が浮かんでいた。

 月の光は、庭や屋敷の中に届き、影を濃くしていた。

 部屋は三人みひとの文字の力によって、灯りがともっていた。文字の灯りと月光とが混ざり合い、不思議な明るさを作り出していた。

「――ともかく、嘉乃に十分な身支度をさせ、東宮御所に送り出しましょう」

 角島つのしまは、黒く光る目をして、三人みひとの目をまっすぐに捉えて言った。

 月光が銀色の光を注ぎ込む。

 庭木の影が黒く濃くなり、影は三人みひとの溜め息を吸い込んで、闇に溶け込んでいった。


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