第26話 最初で最後の命令

 貴族院会議の設立からしばらくの時が流れ、オルシアル王国の情勢もいくぶん落ち着いた頃、“伝道師”がオルシアル王国を旅立つ事となった。

 “伝道師”自身がそれを望んだからだ。リュドミラは彼女を引き止めたが翻意させる事は出来ず、ついに旅立ちの日を迎える事となったのである。


 “伝道師”は、リュドミラの脱獄以来ほとんど常にその傍らにあったが、その存在を公にはしていない。その為、旅立ちを見送るのもリュドミラ1人だけだった。

 リュドミラは、屋敷の一室で“伝道師”と別れの会話を交わしていた。


「願わくば、これからも私を導いていただきたかったのですが」

 リュドミラはそう告げた。もう“伝道師”の意思を変えることは出来ないと悟っていたが、それでも自分の望みを口にしたのである。


 “伝道師”が応える。彼女は灰色のローブ姿だったが、今もその美しい素顔をあらわにしていた。

「もはや、そなたを導く必要などはないよ。むしろ、この国はそなたに任せる。そして、私は他の国に行こう。その方が効率が良い。

 だが、最後に1つそなたに教えておく事がある。

 最初に会った頃、そなたが10年前に時が遡ればよいと言って、私が怒った事があったな」

「はい、よく覚えています」

 忘れられるはずがない記憶だった。その時感じた恐怖は、彼女の人生を変えるものだったのだから。


「あの時語ったことは真実だ。10年前に時が遡るならば、全世界の全ての人間の10年間が、その間の行いの全てが失われる。だが、私が怒った理由はそれとは違う。

 私は、私の10年が失われるという事に対して怒りを発したのだ。

 私にとっては他者の10年などはどうでも良い。だが、私の行いを無に帰す事は許さない。例え仮定の話だとしても、それは、想像するだけでも許されざる事だ。

 私はそう思って生きている。


 そして、自分自身でも絶対にそんな事は望まない。例え、この先私が失敗し、無残な最期を遂げる事になったとしても、そのような場合でも、過去に遡って自身の行いの一部でもなかった事にして、やり直そうとは思わない。

 私は、そんな事を望むような情けない覚悟で生きていはいない。


 そなたも、そう思って生きるべきだ。

 仮に、そなたがあの時と同じような、或いはそれ以上の悲惨な境遇に陥って、今度こそ絶望の内に死ぬ事になったとしても、その死の瞬間でさえも、時を遡って己の行いをなかったことにしたいなどとは思わない。そのような覚悟で生きるべきだ。

 良いか、リュドミラよ。私は、そなたがそのように生きる事を望んでいる」


 リュドミラは話の内容以外のことで驚いた。“伝道師”がリュドミラの事を名前で呼ぶのはこれが始めてだった。リュドミラはその事を嬉しく感じていた。

 そして、話の内容については否定するつもりはない。

 “伝道師”は迂遠な言い回しをしたが、それは要するに、どのような事になろうと後悔しないように、日頃から全力で生きろという事なのだろう。そう考えたリュドミラは、素直に言葉を返した。

「畏まりました。わが師よ。そのお気持ちに沿えるよう務めます」


 伝道師もまた、美しい笑みを見せつつ告げた。

「そうか、それでよい。ところで、私の事を師と呼ぶならば、師としてそなたに命じる事がある。よいか?」

「ッ! はい、何なりとお命じください」

 リュドミラは少し驚き、気を引き締めて応える。


 今まで協力者、助言者という立場をとって来た“伝道師”が、リュドミラに何かを命じるのは初めての事だった。むしろ“伝道師”は、何も望まずただリュドミラが必要とするものを惜しみなく与え続けてくれていた。


 あるいは、今までリュドミラに良くしていたのは、これから告げられる命令を実行させるためなのかもしれない。とすれば、その命令は並大抵のものではないだろう。

 リュドミラはそう思い、覚悟を決めて命令が下るのを待った。


 リュドミラの返答を受けた“伝道師”は、リュドミラと真正面に向かいあい真剣な表情で改めて告げた。

「幸福になるのだ、リュドミラよ。それが私の命令だ」


 意外な言葉だった。リュドミラは目を丸くする。

 意表を突かれて直ぐに答えを返せないリュドミラ向かって“伝道師”が話しを続けた。


「世の中には、私達のような存在は、最後には不幸になるべきだと思っている者が多い。

 力に溺れた者の末路は哀れ。だの、人を呪えば自分も呪われる。だの、復讐はむなしい復讐で幸福は得られない。だの、憎しみの連鎖は終わらない。だの、と、知ったような事を口にして、その方が納得出来る、あるべき結末だ、などと嘯く連中が、な。

 だがな、そんな下種共の期待に応えてやる必要はない。

 そなたが幸福になる事を、誰にも咎めだてられる筋合いはない。


 そなたは、絶望的な状況から立ち上がり、相応の強さを手にした。

 最初に言っただろう。強者は、その強さが及ぶ範囲内において我が儘に、己の意のままに生きてよい、と。

 だから、そなたは人並みの幸福、というものを望んでもよい。

 もしも、幸福になる為に他者の存在が必要ならば、他者を否定する必要はない。いくらでも利用するがいい。

 だが、他者に依存はするな。そなたの生の中心には、そなたがいなければならない。その事さえ忘れなければ、そなたは何も諦める必要はない。

 そなたの強さの及ぶ範囲において、何を望んでも良いのだ。


 例えば、そなたは貴族家の女としての、かつて讃えられた花のような人生を諦める必要はない。

 私は、そなたを闇へと誘い、そして強くあれと告げた。

 だがな、闇の中で強く美しく咲き誇る花もある。そなたはそれを目指しても良い。そなたが、それを望むならば。

 そして私は、そなたがそうなる事を望んでいる。そうなるべきだと思っている。だから、そう命じる。

 分かったか? リュドミラよ」


「はい、心得ました」

 リュドミラは素直にそう答えた。

(見透かされていた)

 そして、心中でそう思った。


 リュドミラは、貴族家の女に相応しい幸福な生涯というものも望んでいた。

 貴族としての責任を持って領民や国の為に働き成果を上げる。また、良き伴侶を得て、互いに助け合い、支え合って生きる。そして、子を得て家名を次代に繋ぐ。そんな生涯だ。

 その伴侶たる者が、互いに愛し合える好ましい相手ならどれほど幸福だろうか。と、そんな娘らしい思いもあった。

 当然の事といえるだろう。己の立場に応じて幸福を目指す。それは、誰しもが望むことだ。


 けれどリュドミラは、自分はもうそんな生涯は望めないし望んではならないと思っていた。自分は闇に入り、闇の中で生きると決めていたからだ。

 そうとなったからには、苛烈な戦いの生涯を送るしかない。と、そう思っていた。


 しかし、師と仰ぐ“伝道師”は、幸福な生涯を諦める必要はないと告げたのだ。闇の中でも、それを目指してもよい、と。むしろ目指せと命じた。

 リュドミラの心情を察していたが故の言葉だろう。事実リュドミラは、心の澱が落ちたような思いをしていた。


 “伝道師”は真剣な表情のまま続ける。

「だがな、それは、容易い事ではないぞ。幸福を得るにはより大きな強さがいる。そなたのような立場なら、尚更に、な。

 実際、前にも言ったように、そなたにとっての極悪人も、他の者にとっては優しい善人だったりする。つまり、他の者にとっては、そなたこそが、決して許せぬ仇となるのだ。

 そなたの復讐は正当なものだった。だが、そなたに対して正当な復讐を目論む者も、きっと現れるだろう。そなたも、その事はもう分かっているな?

 そなたの前に復讐者や、他の敵が現れた時、それを振り払えるかどうか、そして幸福を掴めるかどうかは、そなたがその相手よりも強いかどうかにかかっている。

 どちらがより正当かは関係がない。強いほうが勝つ。要するに、幸福を得るには強さがいるのだ。

 その為にも、結局は、怠らず強くなろうと努めなければならない。私はそう命じている」


 リュドミラもまた、気を引き締めて答えた。

「……よく理解いたしました。私はそれを目指します。それを成し遂げるために、決して油断せず、努力も注意も怠りません」


「それでよい」

 “伝道師”は、少し表情を緩めてそう告げた。

 そして、口調を更にくだけたものに戻して、言葉を続ける。

「それでは、私はこれでこの国を去る。私の存在は誰にも見られない方が良いだろう。この場で姿を消し、勝手に屋敷を出て行かせてもらう。構わないな?」

「はい、もちろん、問題ありません」


 そう言うとリュドミラは、“伝道師”を送り出すために廊下へと続く扉へと近づき、自ら扉を開けた。扉の先の廊下には誰もいない。

 リュドミラの後に続いた“伝道師”は、フードを目深にかぶってその美し過ぎる容貌を隠す。その姿は、リュドミラの前に最初に現れたのと全く同じものだった。


 その時リュドミラは、“伝道師”がこの後どこに向かうつもりなのか聞いていなかった事に気づいた。

 リュドミラは、改めて問うた。

「ところで、伝道師様は、この後、何処へ向かわれるのですか?」

「西へ行くつもりだ。この後しばらくは西方諸国を旅しようと思っている」


 オルシアル王国から西方諸国は遠い。しかし、つい最近、直接オルシアル王国と西方諸国を結ぶ北回りの航路が開かれた為、以前より遥かに行き来がしやすくなっていた。


「良き旅となる事をお祈りしております」

 リュドミラがそう告げる。

「そうだな、私も、そなたとの出会いにも劣らない良い出会いがあればと期待している。

 ではさらばだ」

 その言葉を発すると共に、“伝道師”の姿が消えた。灰色のローブに込められた“姿隠し”の魔法が発動したのだ。


 何者かが廊下に出た気配が感じられた。だが、直後にその気配も消える。“認識阻害”の魔法も発動したのだろう。

 リュドミラは、廊下に出ると“伝道師”が向かったと思われる屋敷の出口の方を向いて、深く頭を下げた。




 やがてリュドミラは頭を上げ、室内に戻った。

 そして、1人になったリュドミラは、椅子に座り目を閉じて静かに考え始めた。

 自分たち家族に起こった事。その後で、自分が行った事とその結果。“伝道師”の命令。そして、自分自身の心の中にある思いや望み。そういった事について深く考え、己の意志を改めてまとめようとしたのだ。


(考えてみれば、そもそも闇に入り闇に生きると決めたからこそ、何も遠慮する必要はない。

 己が非道な行いをし、それによって不幸になった者がいて、恨まれている。それを気にするのは光の下に生きる者だけ。私のような者がそんな事を気にするなど滑稽だ。

 まして、そんなことに囚われて己の生き方を己で狭める必要などない。

 私は、何でも望むことを為せばいい。その為に励めばいい。立ちはだかる者があれば、理ではなく力で振り払うまで。

 注意すべきなのは、抜かりなく強くなる事と、望むものを得るための努力の仕方を間違わない事。それだけだ)

 

 そう考え、リュドミラは心を決めた。己の気持ちに従い、己自身の為に、過たず出来うる限りの事をすると。それは、結局“伝道師”の命令に従う事を目指すという事でもあった。

 リュドミラが目を開いた。その表情は穏やかだったが、瞳は強い決意が込められて深い碧色を湛えている。


 リュドミラは立ち上がって呼び鈴を鳴らした。

 まもなく侍女がやって来る。

「お呼びでしょうか? 公爵様」

 そう言って頭を下げる侍女に向かって、リュドミラが告げた。


「騎士団長のアレクセイを呼んで来て。彼と、今後の事について話し合う必要があるの」

 リュドミラの顔に花のように美しい笑みが浮かんだ。


      ――― 完 ―――

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闇に咲く花――全てを奪われた令嬢の復讐譚―― ギルマン @giruman

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