第3話 とどまる理由


 洗濯作業後、通常の使用人ならば昼食にありつける時間だがイリゼは違った。

 イリゼの食事は一日一回、スープと黒パン。

 それも与えられるのは夕食と決まっている。


 多くの使用人が順番に食堂へ訪れるなか、イリゼは押しつけられる雑務を次々とこなしていた。

 イリゼを遠目に見る使用人たちは、哀れみを感じながらも関わることは拒んでいる。

 誰よりもイリゼを疎んでいるレディナ夫人と、エティナに目をつけられたくないからだ。


 ゆえにイリゼと親しい人間はこの領主城におらず、イリゼの性格を知らない人々は、きっと彼女は毎晩枕を濡らしているのだろうと想像した。




 ところが、他人の想像に反して、イリゼは案外逞しいタフだった。


「……もぐ。今日のミィーティユブルーベリーもみずみずしくて、おいしい」


 雑務と雑務の合間のわずかな時間。

 これを利用してイリゼは領主城内にある果実園に来ていた。

 ここには寒い気候でも実をつけ育つ果物がそれぞれ種類ごとに栽培されている。

 今日はミィーティユブルーベリー農園に狙いをつけたイリゼは、草木の間を平べったい体ですり抜けながら華麗につまみ食いをしていたのだ。


 夕食のスープと黒パンでは体力が持たず、イリゼはよくこうして城に生える果実を勝手に食していた。

 明るみになればもちろん懲罰ものだが、明日を生きるためには少しの綱渡りも必要なのである。


 それでも足りないときは、下町の酒場で皿洗いの仕事のご褒美として賄いを食べさせてもらっていた。

 とはいえ、下町に行くにはそこら中にいる衛兵の目をかいくぐらなければいけないため、行けたとしても十日に一度くらいだ。


 一年で換算すると少ない日数ではあるが、ありがたい糧だとイリゼは感謝していた。

 酒場の影響もあってか、イリゼの精神がむきむきと鍛えられ、ちょっとやそっとじゃへこたれなくなったといっても過言ではない。


(おいしかった。ごちそうさまでした)


 イリゼは最後の一粒を口に放り込むと、心の中でお礼を述べてその場をあとにする。

 続いてイリゼが向かったのは、果実園の横にある小川の、囲まれた茂みのその先にある小さな墓場だった。

 墓場とはいえ、ここに眠っているのは一人だけ。イリゼの母オフィーリアである。


 三年前、母親のオフィーリアが死んでからというもの、イリゼの暮らしは領主城にいながらも扱いは貧民と変わらずひもじいものだった。

 悲嘆に暮れてもおかしくない状況であったが、イリゼは母オフィーリアの願い……もとい遺言を忠実に守っていた。


『どんなに惨めになっても、生きることを諦めないで。私の可愛い子、どうかあなたが幸せになりますように』


(私の幸せは……平穏に暮らすこと。でもそれはまだ難しい。だからね、いまはとりあえず生きることに一生懸命だよ、お母さま)


 墓石に触れ、イリゼは声に出さず心で語りかける。

 母オフィーリアはザルハン領主の妾とはいえ、公妾ではなかった。

 白銀の髪と紺青の瞳を持つ美貌のオフィーリアに惚れ込んだザルハン領主が勝手に連れ帰っただけの存在であるため、正式な妾ではなかったのだ。

 そのため侯爵家の墓園で眠ることはなく、死人に対するせめてもの慈悲だと、形だけはそれなりに立派な墓が造られたのである。


(……やっぱり、お母さまを置いてはいけないわ。こんなところ、一日も早く出たいけど)


 墓石に彫られた名前に触れ、イリゼは弱々しく笑う。

 風が吹き髪が揺れれば、長くなった前髪がはらはらと靡く。その下にあるイリゼの黒い瞳には、自嘲の感情が見え隠れしていた。


 イリゼは何度も領主城を逃げ去ろうと考えたことがあった。

 ここにいては過重労働でいつか体を壊してしまう。そうなる前に離れるべきなのでは、と。

 しかしそれができないのは、この場所に母が眠っているからである。

 イリゼはどうしてもオフィーリアから離れることができなかったのだ。


(そろそろ行かないと。次は厨房で火起こしだった。……寒いよりは熱いほうが助かる)


 冷えは飢えを呼び、飢えは体温を奪う。

 イリゼは生まれてこの方、寒い季節しか体験したことがないが、春とはどんなものなのだろうと思うときがある。

 南にいけば、春はあたりまえに巡る季節のひとつだという。


(春の温かいは、お母さまの温かいと、似ているのかな)


 想像はいいが、希望は持たないほうが身のためである。いつか、なんて言葉はあまり使いたくはない。

 いつか、いつの日か。治ると信じ、回復を願っていた母は、もうこの世にいないのだから。

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