第2話 妾の子、イリゼ


 時は、イリゼが逃亡計画を立てるきっかけとなった十四日前に戻る。

 ザルハン領主であるベクマン侯爵の居城にて十四日後に催される舞踏会の準備が着々と進むなか、イリゼは今日も雑事に勤しんでいた。


「……あ」


 洗濯中にふと上を見ると、見事なまでに丸々とした雲が浮いている。


(あーあ、おなかすいた。牛酪バターと砂糖で焼いた林檎が食べたいわ)


 いつだったか、母親の存命中に食べさせてもらった頬が溶けそうなほどの甘美な焼き林檎が頭に浮かんでよだれが垂れそうになる。

 スープと黒パンが一日に一度与えられるのがやっとの今の生活からは、思い出すだけでも虚しくなってしまうが。


 はあ、とため息をこぼせば、一緒に白い息が口から出た。今朝は一段と冷え込んでいる。これは夕方頃にでもまた雪が降るに違いない。

 ぼんやりと考えながら、イリゼは水に再び触れた。


「痛っ」


 一年のほとんどが寒さと雪に見舞われるこの領地は、素手のまま桶に手を入れると冷たさから激痛が走った。

 毎日休みなく洗濯や雑用を押し付けられるイリゼの手は、悴んで赤切れが多くある。

 寝る前に質が良いとはいえない薬を塗り込んではいるが、効き目を感じる前に新しく傷が出来ての繰り返しだった。


「イリゼ、次はこっちの籠を洗っとくれ」

「はい、すぐに」


 たった数秒手を止めるだけでも、洗濯物は追いつかないほど増えていく。

 毎日毎日、働いて働いて。

 ボロ雑巾のようにこき使われる。


(よし、もうひと頑張り)


 冷たくなった両手に息を吹き込み、喝を入れる。

 今日は昨日よりも早く洗濯を終わらせてやる、なんてことを心の中で意気込みながら。



 イリゼが下級使用人よりもあきらかに酷い扱いを受けるようになったのは、母のオフィーリアが病に伏せ亡くなったときからだ。

 母親を溺愛していたザルハン領主はイリゼを好ましく思ってはいなかったが、オフィーリアがいたからこそ夜は暖の取れる生活ができていた。


 しかし、それも三年前を境に激変してしまった。

 オフィーリアの死後、ザルハン領主はイリゼの生活全般を正妻であるレディナ夫人に任せ、そこからは一律して雑用を押しつけられる日々であった。


 ザルハン領主の好意は、オフィーリアにだけあった。そしてイリゼはというと、むしろ疎まれる存在であり、領主城の誰もがイリゼを遠ざけていた。


 一目で見初めた妾であるオフィーリアの子、イリゼ。しかしザルハン領主は、イリゼを疎ましく思っている。

 それには、イリゼの出自に関係があった。



 ***



 いまは亡きイリゼの母、オフィーリアにはそれまでの人生の記憶がすべて欠落していた。


 自身の名前は覚えていた。

 しかし、それ以外のことは頭から抜け落ち、見知らぬ極寒国の海辺に流れ着き、偶然通りがかったザルハンの領主によって発見されたのである。


 ザルハン領主は、オフィーリアの姿を一目見た瞬間に心を奪われた。

 自身の城に連れ帰り保護し、妾として住まわせ――数ヶ月後、オフィーリアのお腹の膨らみが目立つようになった頃、彼女の懐妊事実が城中に駆け巡ったのだった。


 生まれた子に、オフィーリアは「イリゼ」という名をつけた。

 ザルハン領主の色と同じ髪、瞳を持って産まれたイリゼを、オフィーリアは大切な娘として育てたのである。

 ここまでの母親の人生を順序だてて考えると、イリゼの立場は妾の子、となる。

 だが、イリゼの血統は少々複雑だった。


 イリゼは、オフィーリアがザルハン領主との間にもうけた子供では決してない。

 オフィーリアが記憶を失う前の、どこの誰ともわからない男との間に授かった存在であり……。

 妾の子としているイリゼだが、実のところザルハン領主との血の繋がりはないのである。


 オフィーリアは痩せ型だったため、お腹が目に見えて膨らんだのも妊娠十ヶ月が過ぎたときだった。

 時期的にザルハン領主がオフィーリアを見初め妾にした頃と重なるわけだが、二人の間にはそういった営みはなく、誰の子ともわからない存在にザルハン領主は激怒した。


 だが、オフィーリアは産まれてくるお腹の子に惜しみない愛情を注いだ。

 一体どこで身ごもり、誰との間にできた子供であるかわからない。

 それでも自身の中ですくすくと育ち、時には内側から腹を蹴り、生きている存在をオフィーリアは手放すことなどできなかったのだ。


 こうして誕生したイリゼは、黒い髪と、黒い瞳というザルハン領主と完全に同じ色をして生まれた。

 くわえて目鼻立ちはオフィーリアに似ており、城の人間は誰もがザルハン領主との子だと疑わなかった。


 そして、この事実を知るのは、オフィーリアと、ザルハン領主、イリゼの三人だけだった。

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