肆ノ巻 雨降って地柔く

 シロが叫んだと同時に、大きな炎と黒い煙が三人の眼前に迫った。大量の煙を吸い込まないように袖で口元を覆いながら、桃太郎は畑の向こうを指さす。


「あそこまで走るぞ!」

「待ってくださ……きゃあ!」


 桃太郎と爺が走り出し、後を追おうとしたシロは地面に倒れた。左足が何かに引っ掛かって動かなかったのだ。


「何……これ」


 シロが足元をよく見ると、枯れた蔓が不自然に巻き付いている。足に力を入れて前に進もうとしてみたが、蔓は太く絡み方も複雑で、力任せにどうにかできるものではなかった。


「助け……ごほっ!」


 叫ぼうと口を開けた瞬間に煙を吸い込んでしまい、ひりついた喉からは掠れた息しか出なかった。目から大粒の涙が零れて前が見えず、後ろからは大量の熱が迫ってくる。


(も……だめ)


 朦朧とした頭で思い描いたのは、白地に桃の鉢巻き。そういえば先ほど助けてもらったお礼もしていなかったなと、薄れゆく意識の中でシロはぼんやりと思った。


「シロ!」


 昨日初めて会ったばかりなのにすっかり聞き慣れた声が聞こえ、シロの耳がピクリと動いた。ふわりと身体が宙に浮いたと思ったら、次は地面に固定された左脚が思いっきり引っ張られる。


「いた……っ! げほっ、うえ……あ……し、が」

「何!? ……なんだこれ!? わかった待ってろ」


 現状を伝えようとするも声が出ない。しかしシロが足に視線を向けると桃太郎はすぐに頷き、懐から出した小刀で素早く蔓を切った。シロの身体が再びふわりと抱えられ、次の瞬間呼吸が止まるほどの速度で風を切る。肌が焼ける寸前の熱さがみるみるうちに冷えていき、シロは心地よさに目を閉じた。


「よし。ここまで来れば大丈夫だろう」


 桃太郎は枯れ木の翁の畑に向かい、枯れ木の下で止まった。蔦が絡まっていたところから血を流しているシロを気遣ってか、足を止めても抱きかかえたままだ。


「桃太郎さん。ありがとうございます」


 シロはふにゃりと笑って桃太郎に身体を預けた。隣の爺の家を見ると、炎は茅葺の屋根を中心に勢いよく燃えている。しかし隣とはいえ、枯れ木の翁の家とは少し距離が離れていて、燃え移る心配はないだろう。


「儂の家が……」


 先に避難していた爺が膝をつき、項垂れた。彼の涙のような雫がシロの頬にぽつぽつ当たり、次第に激しくなっていく。


「雨だ」


 ザア、と大粒の雨が、燃え盛る火を今度は勢い良く消していった。まるでこの火を消すために天が用意したように、雨は小一時間のうちにあがって青空が見えはじめる。その間、三人は枯れ木の下を一歩も動かず、一言も話さなかった。変わったことと言えば、桃太郎のシロの抱きかかえ方が、横抱きから背負うような格好になっただけだ。


「……あの。ありがとうございました」


 桃太郎の肩口に顔を埋めるようにして火が消えるのを見ていたシロは、ようやく身体を離して彼の背中から飛び降りた。背負ってもらう代わりに、一応桃太郎の背中が濡れないように守っていたつもりなのだ。微力かもしれないが、一応彼の頭の上に手も翳していた。彼の濡れ具合を改めて見るとあまり効果があったとは言い難いので、完全なる自己満足である。


「別に。足は大丈夫か?」


 桃太郎はしゃがんでシロの傷を確認し、大した深さではない事を確認すると、鉢巻きを外して絞った。


「手当をしてやれなくて悪いな。荷物も全部濡れてしまった」

「いえ、もう痛くないんで……鉢巻もすごい濡れちゃいましたね」

「まあな。お前の手が頭の上にあったせいで、そっから水が垂れて余計に顔にかかるんだよ」

「うそっ!? それ早く言って!?」


 自己満足どころか、逆に迷惑だった。頭を抱えたシロの耳に、遠くで自分たちを探している声が聞こえる。


「おぉーい! みんな、無事だったか!」


 いつの間にか隣の家の畑にいた、枯れ木の翁が大きく手を振りながら走ってきた。その慌てようを見るに随分心配をかけてしまったようだと、桃太郎とシロは同時に手を振り返す。隣の爺は家が全焼したショックで、まだ呆然としていた。


「本当に良かった。誰も返事をしないから、てっきり焼けてしまったかと」

「平気ですよおじいさん。心配かけてごめんなさい」


 シロが頭を下げて、そして小さなくしゃみをした。翁は全身ずぶ濡れの三人を見て、家へ入るように促す。桃太郎とシロは喜んでお世話になることにしたが、隣の爺は渋い顔で断った。


「お前の世話になるくらいなら、畑に寝た方がずっといい」

「やっぱり頑固な爺さんだな。種を捨ててばかりじゃなくて、たまには植えてみたらどうなんだ」


 既に翁の家に歩いていた桃太郎が、呆れた視線とともに振り返った。爺はぐっと言葉を詰まらせ、やがて無言で歩いてくる。人は独りでは生きていけない。家も財も失った今では、一層それを感じるだろう。


「しばらく世話になる。すまない」


 翁の家で着替えを借りて、隣の爺は頭を下げた。水が浸み込む土壌をつくる第一歩。枯れ木の翁は微笑んで頷き、その晩は桃太郎も一緒に布団を並べて一緒に休んだ。


 ちなみにシロは別室だ。本人は一緒に寝たいと言い張ったが、犬といえども女性なので一応の配慮だ。しかし彼女はしつこく枕を抱えて寝室に突撃し、桃太郎に叱られ、廊下で寂しく犬の姿でふて寝したのだった。

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