第3章 エンカウンターズ・オブ・ジ・アンノウン ー①

五月十一日 木曜日



 朝、いつもと同じように目覚まし時計がなる前に目が覚めた。


ジリリリッ ジリリリッ

 久鎌井が何気なく指の腹でアラームを止めるボタンを押したそのとき。


「っつ!」

 痛みが走った。


 久鎌井は反射的に手を引っ込めて、その痛みのもとに視線をやる。

 伸ばした左手の、人差し指。そこに二本、ミミズ腫れのような跡が見つかった。

 そこは、あのアルマジロにかまれた場所であった。

 もう一度確認のために触ってみると、それほど大した痛みではなかった。寝起き直後の突然の刺激に、大げさに反応してしまっただけのようだ。

 しかし、料理をするときにどうしても何かに触れてしまうので、とりあえず絆創膏を張っておいた。

 それから久鎌井はいつも通りの朝を過ごした。


 そして登校。

 道すがら、久鎌井の頭の中には、あのアルマジロのことが思い浮かんでいた。


 変なアルマジロ――というか、明らかに異常な様子であった。


 何せ常夏の島でリゾート気分を楽しんでいるような格好で、公園の茂みの中でくつろいでいたのだ。しかも、アルマジロがその場を去ると、周囲の備品は周囲の草木へと形を変えた。そんなことができるものが一般生物であるわけがなかった。


 そして、白騎士の姿を見たときの驚き方も、まるで人間のようであった。

 久鎌井は思う。

 やはりあれは、白騎士と同じようなものではないだろうか。


 それに、あのアルマジロは人間の声を発した。それは女性のものであった。

 久鎌井には、衣が白騎士の声と仕草から自分にたどり着いたように、その声からアルマジロの正体に辿りつく自信はなかった。なにせ普段から、他人と積極的にコミュニケーションとる人間ではないので、声だけで人を判断することはできない。アルマジロから発せられた声も、何処かで聞いた気もすれば、聞いたことがない気もする。

(分からない)

 考え事をしていると十五分の道のりもあっという間だった。

 久鎌井は昇降口で上履きに履き替え、教室に向かった。


「おはよう」

「おはよう」


 周囲からかけられる声に、半ば反射的に声を返す久鎌井。それだけだ。特に会話もせず、そのまま通り過ぎる。その程度のコミュニケーションしかとらないのだから、久鎌井がクラスメイトの顔と名前が一致しないのは当然である。

 しかし、今横を通り過ぎた女生徒の顔と名前を、久鎌井は珍しく知っていた。


 花住かすみ綾香あやかだ。


 彼女は弓道部の部員であった。一年間とはいえ、同じ部活で活動し、その上彼女とは、一年、二年と同じクラスだったのだから、流石の久鎌井も覚えた。


 それに彼女も、衣と同じく美人に数えられる生徒だ。

 性格は温厚で、人当たりが良いい。明るい笑顔が特徴的で、衣がみんなから尊敬される人間だとすれば、彼女はみんなから好かれる人間だ。


(そういえば男子生徒の誰かが、「幼馴染には花住さん、お姉ちゃんには沢渡先輩なんだな、うん」と言っていたっけ。まあ、どうでもいいけど)


 外見的にはポニーテルが良く似合っている、もちろん久鎌井から見ても可愛いと思う少女であった。とはいえ、やはり彼にとってはただのクラスメイトでしかないわけだが、今日は少し特別だった。


「?」

 久鎌井は教室に向かう綾香の後姿を思わず眼で追ってしまった。左腕の上腕と前腕に一箇所ずつ、包帯が巻かれていることに気が付いたからだ。かといって、それについて尋ねるような仲でもない。久鎌井も教室に向かった。



 — * — * — * —



 昼休み

 久鎌井は昨日同様、弓道場で衣と昼食をとっていた。そして、白騎士となって、黒い蜘蛛を探索したことを話した。


「面白いわね、そのアルマジロ」

 話を聞いていた衣の興味も、やはりその謎の生物に注がれた。

「市内の夜の公園でリゾート気分を満喫してたんだ」

「ええ、見た感じは紛れもなくそうでした。でも、僕の姿を見て逃げ出したんです。なんとか一度は捕まえたんですけど、ほら」

 久鎌井は絆創膏を捲いた指を見せた。

「指を噛まれてしまいました」

「え!?」

 それを見て、衣は驚愕の表情を浮かべた。


「どうしたんですか?」

「それって、白騎士の鎧を突き破ったってこと?」

「いえ、鎧を傷つけられただけです」

「ってことは、あの鎧が傷つくと、あなたにも傷がつくってことなんだ」

「ああ、言われてみればそうですね」

 二人はしげしげと絆創膏の捲かれた指を見た。

「そのアルマジロって、ものすごく硬い歯を持っているのね。あの鎧、すごく硬そうなのに」

「そうみたいですね」

「ってことはやっぱり普通のアルマジロではないってことよね」

「多分……」


 やはり、そうとしか思えない。しかし、白騎士みたいな存在は、そう何体もいるものだろうか? そもそも、あれは一体何なのだろうか。考えないように頭の端に追いやっていたはずの問題が引きずり出される。


「そのアルマジロが誰だか分かんないの?」

 確かに、誰がそのアルマジロになっているのかが分かるならば、久鎌井としてもぜひ話を聞いてみたいとこではある。しかし――

「ええ、声は聞きましたけど……さすがに分からないです」

 久鎌井には無理な相談である。


 二人して項垂れていると、ふと昨日噛まれた指が久鎌井の視界に入った。

(待てよ)

 久鎌井の頭の中で何かが引っかかった。

 自分は昨日、白騎士になっているときに噛み付かれて、それが朝起きたらミミズ腫れとなって跡が残っていた。じゃあ、アルマジロの方はどうだろうか。

 久鎌井は白騎士の力で、暴れるアルマジロを抑えようと、右腕で体を押さえて、左腕で相手の腕をつかんでいた。


 そう、アルマジロの左腕を、容赦なく捕まえていた。


 ということは、左腕に何らかの跡が残っていてもおかしくはない。あの時、「痛い!」と声も上げていたはずだ。


「失礼します」

 そのとき、誰かが弓道場に入ってきた。


「「!」」

 久鎌井と衣はお互いの顔を見合わせて、頷き合うとすぐに行動した。

 見られたら、あらぬ噂を立てられると考えて、久鎌井は入り口から見えないところに隠れ、衣は彼が入り口から見えないように意識して壁となった。


「あ、沢渡先輩、どうしたんですか?」

 入ってきたのは花住綾香であった。


「わたしはお昼ご飯を食べていたんだけど」

 衣は平静を装い。ちょうど食べ終わったところよと仕草で見せた。

「綾ちゃんは?」

 花住綾香は、クラスメイトからも弓道部員からも綾ちゃんの愛称で親しまれていた。

「午後からの授業の用具を、更衣室に忘れてしまったので取りに来たんです」

 綾香は笑顔でそう答えると更衣室に入って、しばらくすると用具を持って出てきた。

「それでは、失礼します」

 そうして、去っていった。


「もういいわよ」

「ふう」

 息を潜めていた久鎌井が、思わず大きなため息を吐く。

「ちょっとスリリングだったわね」

 衣はどこか楽しげに笑みを浮かべていた。

 しかし、久鎌井は別のことを考えていた。


 彼女――花住綾香の腕には包帯が捲かれていた。


(彼女が昨日の?)

 まさか、と思いながらも、久鎌井は懸命にあのとき聞いた声を思い出してみた。そして今日の朝聞いた「おはよう」の声と比較してみる。

 あまり似ているとは言えない気がした。とはいえ昨夜は叫び声に近かったので普段とは違う声色になっていた可能性もある。


「どうしたの? もうそろそろ教室に戻らないといけないわよ」

「あ、はい」

 衣は時間が迫っていることに気づき、急いで弓道場を後にした。それに続いて久鎌井も教室に向かった。



 — * — * — * —



 午後の授業の間、久鎌井はちらりちらりと綾香の様子を窺っていた。


 久鎌井の席は偶然にも彼女の左後方に位置していた。そのため、顔を黒板に向けると、どうしても左腕に巻かれた包帯が視界に入るものだから、気にせずにはいられなかった。


(あれは俺が掴んだことでついた跡を隠すためのものなのだろうか……)

 あるとき、花住さんが何気なく左腕を掻いた。そして、包帯が少しだけ捲くれ上がった。中から覗いたのは打ち身の痕のような、紫に変色した皮膚だった。

(あれは……)

 どうなのだろう、あれだけで自分が鷲掴みにしてできたものだとは断定できない。もしかしたら、ただ何処かにぶつけてできた青痣かもしれない。しかし、肘や前腕はともかく、上腕は、例えば転んだとしてもそうそう打ち付けるような場所ではない気がする。

(直接、聞いてみるしかないか)

 久鎌井は思考の堂々巡りに悩まされながらも、六時限目の授業が終わる頃にはようやく決心することができた。



 — * — * — * —



 授業が終わって、皆が帰り支度を始める。

 綾香は弓道場に向かうべく鞄を手にしていた。

 久鎌井はその後を追い、周囲の生徒が少なくなるのを見計らって、彼女に声を掛けた。


「花住さん、少し聞きたいことがあるんですけど、お時間いいですか?」

 弓道部の部員の多くは彼女を“綾ちゃん”とちゃん付けで呼ぶが、久鎌井はそうは呼ばない。

「いいですけど、ここで……ですか?」

 綾香は両手に鞄を持ったまま体全体で振り返り、久鎌井に尋ねた。

「そう……ですね。じゃあ、屋上はどうですか?」

 相対してみると、やはり美少女である。久鎌井は思わず照れながらそう提案した。

「ええ、いいですよ。わたしも聞きたいことがあったので丁度いいです」

「え?」

「行きましょう」

 綾香は久鎌井に笑いかけると、先に階段を上っていった。


 自分から誘ったはずなのに、まるで相手に誘われたかのような展開に、久鎌井はハトが豆鉄砲を喰らったような表情をしていた。綾香は後方を確認する様子もなく、どんどん先に進んでいく。このままでは置いて行かれてしまいそうな勢いに、久鎌井はあわててその後を追った。


 そして、屋上に着いた。

 運動場からは、今から部活を始めようとしている生徒たちの声がちらほらと聞こえ始めていた。

「えっと、僕に聞きたいことってなんですか」

 立場が逆転し、久鎌井が綾香に尋ねた。


「はあ」


 質問に対して返ってきたのは、誰かの疲れたようなため息だった。

 しかし、それが何処から聞こえてきたのか、久鎌井はすぐには分からなかった。周囲を見回すも、屋上には久鎌井と、彼に背を向けている綾香しかいない。

 綾香が、振り返った。


「あんたでしょ、昨日の白騎士」


 その顔を見て、久鎌井は目の前の少女が、先程まで目の前にいた少女と同一人物かどうかを思わず疑ってしまった。


 嫌いなものを見るような、煩わしいものを扱うような、そんな混じりっ気なしの負の感情が、表情からあふれ出ていた。

 笑顔の似合う温厚な花住綾香の姿は、そこにはなかった。


「え?」

「その指、わたしが齧った痕ね」

「あ、ああ」

 彼女の突然の変化と、話の展開に、久鎌井はすぐに対応できなかった。

「じゃあ、やっぱり君は……」

 久鎌井は何とか気持ちを落ち着け、かろうじて聞きたかったことを口にした。

「そうよ、あのアルマジロはわたしよ」

 彼女は特に慌てた様子もなく正体を明かした。


 しかも――


「まったく、よくも邪魔してくれたわね。わたしの至福の時間を! おまけに左腕に痣まで作ってくれちゃって、あんた白騎士になったの最近でしょ? だってのにわたしの邪魔するなんていい度胸――」


 捲くし立てるその口調は、表情や態度と同じく、いつもの様子からは想像できない乱暴なものだった。そのギャップは、衣が実は犬嫌いだったことなど容易に吹き飛んでしまうような驚きをもって久鎌井を襲っていた。が――


「君も僕と同じなんだ? しかも、君はもっと前からこの夢を見ていたのか? そうなんだ。ねえ、いろいろ教えてくれないか? 僕はまだこの白騎士になる夢のこと良く分かってないんだ。すまないが、頼む!」

 それ以上に彼の心に湧き上がっていた感情は、同じような状況にある仲間を見つけた喜びだった。彼女の言葉を遮って、今度は久鎌井が早口で捲くし立てた。


 その様子を見て、綾香の表情はより険しくなる。


「何でよ、嫌よ、面倒臭い。どうしてわたしがあなたにそんな話をしなきゃいけないの? てかいきなり馴れ馴れしくしないでくれる」


 君だっていきなり態度が変わっているじゃないか。と口をついて出そうになるが、久鎌井はその言葉を飲み込んだ。


「ごめん。でも、君はこの夢をどう思っているの? 君も、寝て気がついたらアルマジロになっているんじゃないのか? 違うのか?」

 久鎌井はいつになく興奮して、次々に質問をぶつけた。

「ち、違わないけど……」

 そんな彼の剣幕に、今度は綾香の方が少し気圧されている。


「だーーっもう!」

 綾香は大声で久鎌井の言葉を制すると、彼に向かって人差し指を突きつけた。


「わたしがあなたに言いたかったことはただ一つ。あのときのわたしの時間は貴重なものなの! だから二度と邪魔しないでってこと!」

 その態度は、これ以上の質問を許さないものだった。


「うっ」

 久鎌井は言葉につまり、魚のように口をパクパクさせることしかできなくなってしまった。


「分かってくれたようね」

 そんな久鎌井の様子を肯定と受け取ったのか、綾香は満足そうに頷いた。しかし、久鎌井も負けじと言葉を搾り出した。


「……じゃあ、最後に一つだけ答えてくれないか?」

「……何? 一つだけよ」

 綾香は仕方ないといった様子で頷く。

「君、黒い蜘蛛について知らないか?」

「黒い蜘蛛? ああ、少し前に噂になってたやつね」

「ああ、そうだ。僕は、もしかしたらその蜘蛛も僕たちと同じような、誰かの夢なんじゃないかって思っているんだ。」

「……なるほどね、だけど残念。わたしは知らないわ。自分以外のことに興味ないの」

 それじゃあ、と、花住綾香は久鎌井の横を通り過ぎた。


 屋上の入り口まで来ると振り返り、

「それじゃあ、久鎌井くん。また明日」

 いつもの笑顔と声色で久鎌井に挨拶をした。

「うん、また明日」

 久鎌井は、その後ろ姿を呆然と見送ることしかできなかった。


 嵐のように駆け抜けていった衝撃の事実。

 花住綾香が自分と同じような夢を見ていたこと。


 そして、強烈な猫かぶりであったこと。


 久鎌井はそれらの情報をどう整理したものか分からず、しばらくその場を動くことが出来なかった。


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