第九章 別れの日

第50話 ナイル染める夕陽

 野次馬達が家路につき、ある程度の戦後処理が落ち着いた頃。ラムセス二世が兵士達を率いてやってきた。


「んじゃま、俺は帰るわ。遺体が腐る前に運んでやらにゃいかんでな」


 そう言うとラムセス二世は、リラにもう一度、聖なる池からぺル・ラムセスまでの道を開くよう頼んだ。


「わかった」


 リラはと頷くと、「一人で大丈夫かな」と独り言を言いながら、聖なる池に歩いて行った。


 何人かの兵士が背中に仲間の遺体を負ぶっている姿を見て、カエムワセトは眉を下げると、唇の両端を締めて俯いた。


「全員無事で帰す気でいたんだとしたら、とんだ甘ちゃんだと思えよ」


 ラムセス二世は死傷者を出して落ち込んでいる息子の頭を、拳でゴツンと叩いた。


「死人の出ねえ戦争なんざ、お伽話にも存在せん。連れて帰ってやれるだけ、マシってもんだ」


 ホラ、と掌を出す。

 その行動の意味するところが分らなかったカエムワセトは、しばし父の掌を見つめた。他国との戦争を繰り返してきた父のその分厚い掌には、剣タコがあった。


「なにやってんだ」


 いつまでもぼんやりとしている息子に、ラムセス二世が苦笑った。


「剣だよ。返す約束だろうが」


「あ、すみません」


 そう言われてやっと、カエムワセトは帯から剣を抜き取り、本来の持ち主に返した。


「ありがとうございました」


 自分の命を助けてくれた剣と父王に、深々と礼をする。


「ぺル・ラムセスで待ってるぞ」


 ラムセスは満足げに口角を上げると、兵士を引き連れて帰って行った。



「殿下」


 後ろから呼び声がかかり、カエムワセトは振り向いた。


 そこには、ハワラと母親が寄り添って立っていた。

 母親は泣き腫らした目を指で押さえながら、息子の助けとなった王子に何度も頭を下げた。


 母親にやっと頭を上げさせたカエムワセトに、ハワラが別れを告げる。


「そろそろ行くよ。お迎えが来たみたい」


 そう言って、ハワラは門に顔を向けた。そこにはアヌビス神の使いであるジャッカルが一頭、明らかに誰かを待っているように座っていた。


「行くというのは、どこへ?」


 カエムワセトの問いに、ハワラは、自分はミイラ造りの工房で目覚めてやってきたのだと説明した。だから、工房の処置台の上に身体を戻すのだ、と。


 それを聞いた母親が、再び嗚咽を漏らした。


 工房まで送ろうか、とのカエムワセトからの申し出に、ハワラは「一人でいいよ」と笑って辞退した。


「死体に戻る所なんて、見られたくないもん」


 カエムワセトは「そうだな」と悲しげに微笑み返した。


「別れが辛くなるから、皆にももう会わないよ。よろしく伝えてね。特にカカルには」


 そう言うと、ハワラはくるりと背中を向けて、ジャッカルの元へ歩いて行く。


 カエムワセトは隣で嘆き崩れる母親の背中に手を添えながら、「ハワラ!」と、全ての重荷を下ろした少年の背中に声をかけた。


「君の葬儀、約束通り私がやらせてもらう」


 振り返ったハワラの顔は、満面の笑みだった。


「じゃあ、きっと僕、イアル野に行けるね!」


 ハワラは朝陽が降り注ぐ中、ジャッカルと共に神殿を後にした。



 その日の夕刻。神殿では、イエンウィアとパバサの遺体をミイラ造りの工房に運ぶ為の準備を終えようとしていた。


 中庭に安置された二人の遺体は身体も衣服も綺麗に整えられ、その表情は眠っているのと大差なかった。


 二人に花を手向けたジェトとカカルは、べそべそと泣きながらアーデスに肩を抱かれていた。


 リラと並んで階段に座っているライラは柱にもたれかかり、ぼんやりと別れの様子を眺めていた。


 他の神官達も次々に二人に花を手向けていく中、少し離れた場所からその様子を見守っていたカエムワセトの隣に、フイが立った。


「あやつめ、今朝がたワシの枕元に現れよったわ」


 花に囲まれてゆく部下達を憮然と見つめながら、フイはバー(魂)となったイエンウィアの来訪を告げた。

 カエムワセトがその横顔を見ると、骨ばった頬の下にある大きな口が、不自然なほど歪んで震えていた。


「何を言うかと思えば、『葬儀は質素にしてくれ』とのたまいよった。道端で転がっとった幼いあやつを、拾って育て上げたのはワシじゃぞ! しゃらくさい! ド派手な葬式あげてくれるわ!」


 唾を飛ばしながら口にした言葉の最後で、フイは堪え切れなくなった涙を流した。その白濁した瞳から溢れ出た大粒の涙は、拭かれぬまま彼の裾や床を濡らした。


 家族を全て失い、妻も持たなかったフイにとって、イエンウィアは血の繋がりはなくとも息子同然であり、また、信頼できる部下でもあった。それを失ったフイの身体は、一回り小さく見えた。悲しみを堪えているせいか、漏れた思考が独り言となって出て来る現象もみられない。


 カエムワセトは床に視線を落とした。


「全て私のせいです」


 どんな謝罪も軽々しく感じられた。お詫びの言葉も無い、とはこういう事を言うのであろう。

 責められるであろうと思っていた。もしくは、捨てるが如く諦めの言葉を吐かれるであろうと。しかし、フイが取った行動は、そのどちらでもなかった。


 フイは杖先でカエムワセトの後頭部を叩いた。


「その頭は飾りか。もっとよく考えてものを言え、馬鹿者めが」


 非力を責めるでもなく諦めるでもなく。かといって慰めるでもなく。フイは口を真一文字に結ぶと一言


「精進せい」


 と言った。


 風が吹き、イエンウィアとパバサを囲む花の花弁が、夕暮れに舞い散った。

 白いヤグルマギクの花弁がカエムワセトの腕にゆるりと落ちた。摘まんで取ろうとすると、フイが「乗せておけ」と静かに制した。


「あやつらからの挨拶代わりである」


 フイの肩にも、紫の花弁が一枚落ちていた。


 再び風が吹き、挨拶代わりの花弁は、カエムワセトとフイの元を離れて飛んで行った。


 花弁を見送りながら、フイが寂しげなため息をついた。


「イエンウィアがおらんくなった故、お前に最高司祭の座を明け渡すまでワシはまだ暫く頑張らにゃならんわ。断食も思考を湧かせるのも、止めじゃ。普通の司祭として大人しく過ごすわ。無茶はもうすまいよ」


 カエムワセトは目を瞬いた。なんだが、物凄い計画を暴露された気がする。だがそこは、今は追求しないことに決めた。それよりも、フイが思考の漏れ具合を制御できた事が驚きであった。おそらく、有能な補佐役あってこそ許されていた奇行だったのであろう。


 フイは両手で杖をしっかりと握りしめ、顎を上げて胸を張った。


「鋭意努力であるよ。お前もワシも、生きとる限り」


 カエムワセトの背筋も、つられて自然に伸びた。


「肝に銘じます」


 ナイルに反射する夕焼けは、この世の全てを焼き尽くせそうなほどの真紅だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る