第48話 夜明け

 兵士達がおそるおそる敵が消えた場所に集まりざわめく中、ジェトがカエムワセトに駆け寄った。


「退治、しちゃったんすか?」


 『守護する者』が消えた場所を見やりながら訊ねたジェトに、カエムワセトは「ああ」と答えながら刀身を見た。そこについているはずの黒い血は、やはり本体の消失と共に消えていた。


 剣を鞘に戻したカエムワセトは、ジェトが持っている弓に目を留めた。


「ジェト。その弓は」


 ジェトが慌てて弓を後ろに隠した。その意味を理解したカエムワセトは表情を曇らせ、「そうか」と低く呟くと、ジェトを通り越して多柱室を出て行く。


「あ、あのおっ!」


 ジェトが、カエムワセトの背中に呼びかけた。


「さっき言った事、ちゃんと保障します。オレ、新しい頭目と反りが合わなくて盗賊団脱走するくらい人の好き嫌いはっきりしてるんで。ラムセス大王は確かにすげえお方だと思うけど、俺はあんたのほうが好きっすよ。――あ、変な意味じゃなくてね!」


 わざと明るく振る舞おうとするジェトに、カエムワセトは顔半分だけ振り返ると、悲しげに微笑んで俯いた。


「ありがとう。けれど、私はまた――」


 その時、「あにきぃ~」という間延びした声とともに、カカルが走って来た。


 ジェトはずぶ濡れの弟分の姿に、目を丸くした。まるで川か池からそのまま出てきたようで、通った所にはところどころ水溜りができている。


「お前、何やってたんだ? ベタベタじゃねえか」


 濡れた身体でまとわりついてくるカカルを避けながら、ジェトが訊ねた。


 カカルは満面の笑みで両手を腰にあてると、大仕事をやり遂げた子供のように誇らしげに胸を張った。


「リラと一緒にライラさんの怪我治してたんすよ。ほら」


 後ろを振り返ったカカルの向こうから、リラとハワラに支えられたライラが、壁に手をつきながら歩いてきた。三人ともずぶ濡れで、足元もおぼつかないが、確かに生きている。


「凄かったっスよぉ。リラが自分の指から取った血を池に一滴入れて、そこにライラさんと入ったら水面がぱーっと光って。あっという間に傷がなくなったんスよ」


 カカルは興奮気味に、両手を広げてその時の現象を表現した。


 カエムワセトは瞬きも忘れて、自分の代わりに矢を受けた忠臣の回復した姿を見つめた。やがて、駆けだす。


 カエムワセトは腕を広げ目の前の忠臣を腕に抱こうとした。が、両手が届く直前に、ライラは身を低くして床に這いつくばった。


 いきなり視界から消えられ固まったカエムワセトの足元で、ライラは土下座した。


「最後まで殿下をお助けできなかった上、臣下以外の者に己の弓を託した言語道断の行い! 全て、私の不徳の致すところでございます!」


 カエムワセトは行き場の失った両腕を下ろし、心底困った面持ちでライラを見下ろした。


 カカルとハワラは可哀想な生き物を見るような目で、抱擁に失敗した王子を憐れむ。


「ちょっと待て! てめえが俺に弓を押し付けたんだろうが!」


 大いに不服を感じたジェトが、ライラに文句を言った。


「うるさい! あんたに軍人の忠誠心が分かるか!」


 ライラは身を起こすと、言い返した。そしてあろうことか、「もういいでしょ返しなさい!」とジェトの手から自分の弓をひったくった。


 その可愛げのない態度に、ジェトは顔を真っ赤にして怒り狂った。


「俺はちゃんと矢を中てたんだぞ! ちったあ褒めたらどうだ!」


「はいはいよくできました!」


「心がこもってねえーっ!」


 二人の間で子供のような喧嘩が始まったが、それはカエムワセトがライラを腕に抱きしめた事ですぐに終了した。


 そこにいる全員が驚いて目を丸くする中で、カエムワセトは「よかった。本当によかった」と繰り返す。


 全身真っ赤にして硬直しているライラがその言葉を受け取れたかどうかは不明だが、その他の面々は、二人の様子に闘いの終わりを実感して、笑顔で顔を見合わせた。


「ハワラ!――ハワラ!」


 神殿の外から女性の呼び声が聞こえた。


 聞き覚えのあるその声に、ハワラは急いで声が聞こえた方へと走った。


 神殿の前庭に出ると、そこには大勢のメンフィスの住人が集まっていた。殆どが南側の居住区に家を構えている者達である。この騒ぎで目を覚まし、何事かと見に来たらしい。援軍の兵士達が家へ帰るよう促してはいるが、民衆たちは声高に、空から降って来た大蛇やアヌビス神、そして、足元にごろごろと転がっている蛇の死骸の説明を求めており、一向に帰る気配は無かった。


「母さん!」


 ハワラは群衆の中に、自分を呼んでいた人物の姿を見つけて駆けだした。


 他の住人と同様に騒ぎで目を覚まし、目の前で起こっている不思議な現象の数々に、ミイラ処置室から消えた息子が関わっていると直感したハワラの母は、一心不乱に息子の姿を探していたのである。


 欲してやまなかった呼び声とともに自分の腕に飛び込んできた息子を、ハワラの母は、しっかりと抱きとめた。


 涙を流しながら抱き合っているハワラと母親を遠目に見ながら、ジェトがカエムワセトににやりと笑う。


「知ってる奴に会っちゃ、まずいんじゃありませんでしたっけ?」


「まあね。けれどもう、起こってしまったものは仕方がないんじゃないかな」


 苦笑いで答えたカエムワセトの鷹揚さに、ジェトは爆笑した。


「そっすね。なんでもありな夜だったしな。もうどうでもいいや!」


 ジェトは空を見上げた。暗雲が立ち込めていた夜空は、いつの間にかいつもの快晴に戻り、東の方は、少しずつ明るみを帯びてきていた。


 夜明けであった。


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