第47話 蛇の正体

 カエムワセトが多柱室に入ると、魔物は兵達の攻撃を受けながらも、まだ暴れ回っていた。幾つかの松明は倒され、床に散らばった薪はまだ炎を燃やし続けている。


 先程の傷が効いているのか、魔物の動きは鈍くなっていた。だがカエムワセトの姿を見つけた魔物は、鞭のように大きく身体をしならせて、周りの兵達を蹴散らした。


 四方に張り飛ばされた兵達だったが、そこは鍛えられた軍人である。すぐさま起き上がり、武器を構え直した。


「【邪魔立てするな!】」


 再び飛びかかろうとした兵士達に、魔物が吠えて攻撃を制した。


 そして、ゆっくりとカエムワセトの正面にその身をくねらせた魔物は、本来ならば蛇には存在しない下瞼を持ち上げ、その目に不気味な笑みを作った。


「【これより先は因縁の対決となる。無粋な横やりを入れるでないわ】」


「因縁?」


 カエムワセトは眉を寄せた。


 魔物はカエムワセトの質問には答えず、鼻から細い息を吐いた。


「【女の屍を越えてきたか】」


 嘲りを含んだその言葉を聞いた途端、カエムワセトの眼光が鋭くなり、全身に殺気を帯びた。


 兵士達は、温和な男が見せた驚くべき変化に背筋を震わせた。だが魔物はむしろその変化を楽しむように、傷ついた巨体を持ち上げて左右に揺れた。


「【人間ごときが、よくもここまで追いつめてくれたものだ。褒美に我が名を教えてやろう。我が名は『守護する者』だ。トトの書の最初の守護者である】」


 カエムワセトの目が驚きに見開かれた。


 予想だにしていなかった魔物の正体を告げられたカエムワセトは、古の王子ネフェルカプタハに倒されたと聞いていた大蛇の存在を思い出した。


 トトの書は初め、ナイル川の底深くに埋められ、それを蛇やサソリが取り巻き、更にそれを大蛇が守護していたと伝えられていた。ネフェルカプタハは大蛇と闘い、トトの書を手に入れた。その時の大蛇が、目の前の蛇の魔物というわけである。


 カエムワセトは、トトの書を手にしたネフェルカプタハが神々の怒りに触れて命を落としたと聞いてはいたが、トトの書を守っていた大蛇がその後どうなったのか聞き及んではいなかった。それがまさか、生きていようとは。


『守護する者』は、傷だらけの身体を揺らしながら話を続けた。


「【戦いに敗れた我は、お役御免となって神の御元に帰れるのだと思っていた。だが役目を果たせなかった我に、トトは罰を与えた。杖だ。憎きウアスの杖。それでトトは我を、メンフィスを流れるナイルに叩き落とし、メンフィスの地から動けぬよう縛りつけた。我は長々と、ナイルの川底を彷徨った。するとある日、奴と同じ高い魔力を持った王族の匂いがした。見上げると、王子が何人か水面を泳いでいた。そのうちの魔力持ちと、ネフェルカプタハの姿が重なった。我は復讐心に駆られた】」


 カエムワセトの手がぴくりと震えた。


「まさか、私たちの……」


『守護する者』を、困惑した面持ちで見つめる。


「【ようやく気付いたか。おまえの足を引いたのは、我だ!】」


 周りで武器を構えていた兵達も、『守護する者』が暴露した真実に騒然となった。


「では、兄はお前に?」


 カエムワセトが言わんとしている事を悟った『守護する者』は、「【はっ!】」と嘲笑気味に吐き捨てた。


「【我か? 兄を死に追いやったのは間違いなくお前だ! お前に我を拒む力が足りなかった故だ! トトの書を求めた愚かな王子よ。その愚行を犯したのは確かにお前であり、ネフェルカプタハだ! 神々はトトの書を返したお前に罰を与えなかった。故に我は決めたのだ。我が貴様に罰を与えると。ネフェルカプタハが妻子を奪われ自ら命を絶ったのならば、貴様も同じ道を辿るべきである! 分っておるか若造よ。最も重い罰とは、己の命を奪われる事ではない。己をこの世に繋ぎとめる鎹を失う事である! 私はお前にも自害を求める! 自害に匹敵する苦しみを与えねばならぬのだ!】」


『守護する者』は、言葉を重ねるごとにその語勢を強めた。


「【我の前で苦しめ! これは制裁だ! 自害せよ! でなければ我と再び戦えネフェルカプタハよ! 我を解放せよ! 永久の虚無から解き放て!】」


「お前……」


 カエムワセトはようやく気付いた。既に狂っていたのである。真の敵と敵を投影しただけの人間の区別がつかぬほどに、『守護する者』の精神は壊れていた。


 『守護する者』はトトの書を守る為にのみ遣わされた。しかし、罰を受けた身の蛇腹には、内に守るべきものは、もはや何も無かったのである。ナイルの底で何千年眠ろうと、目覚めれば瞼を閉じた時と寸分たがわぬ姿がそこにある。赦しを得られないのであれば、永久の命は精神を傷つける楔でしかなかった。


「私の命も苦しみも、お前を満たす事はできない」


 カエムワセトは言った。


「ようやく分ったよ。トトの書との再会は、私への助成でなく慈悲だったんだ。神々から、お前への」


 それを、『守護する者』を炙りだす為にカエムワセトは手放した。だが後悔はしていない。こうするより他に道は無かったのである。


「トトの書は無くしたが、私に出来得る術でお前に引導を渡すよ」


 それで許せ。


 カエムワセトは剣の切っ先を『守護する者』に向けた。


 『守護する者』は嘲った。


「【貴様のような愚図が我に引導を渡すか】」


「そうだ。お前が足を引こうとしたのは、そんな人間だよ」


 カエムワセトは『守護する者』の息使いを感じながら、狂気を貯め込んだ蛇の大きな瞳を睨んだ。


「私は子供の頃から、誰かに守られなければ何も成し遂げられない頼りない人間だった。そんな私がここまで来られたのは、お前のいう鎹の存在があったからだ。だから、だからこそ私は――」


「そりゃ違うね。王子様」


 新たな声が多柱室に加わった。聞き覚えのあるその声は、多柱室のどこからか響いてくる。


「あの女があんたの盾になったのは、あの女にとってあんたが真の主君だったからだ。あんたの周りに人が集うのは、あんたが頼りないからじゃなく、あんたに人を惹きつける才能があるからなんだ――よっ!」


 言葉の最後で、列柱の一つの影からキラリと光るものが飛び出した。それは、『守護する者』の首筋に命中した。


「よっしゃ当たった!」


 柱の陰から、拳を掲げたジェトが現れた。


 これまでにない身がえぐられるような痛みを覚えた『守護する者』は、悲鳴を上げてのたうちまわった。その痛みは、まるで根を張るように、『守護する者』の身体を浸食していった。


「王子! 今度の矢はリラ製だ。絶対抜けません!」


 ジェトは、カエムワセトに叫んだ。


「すまない。恩にきる」


 カエムワセトは剣を構えた。


 いつの間にか、神殿は元の色と影を取り戻していた。しかも、松明の幾つかは倒されてしまったため、影も深い。カエムワセトは深く呼吸して、焦りを相手に悟られぬよう気持ちを落ち着かせた。


 『守護する者』は咆哮を上げた。


「【おのれトトぉー!】」


 『守護する者』はその身をくねらせると、最も近くにあった影に飛び込んだ。だが、首筋に刺さった矢が、その位置を明確に示していた。


 柱の間を滑るように移動する矢を目印に、相手が出て来る瞬間を待っていたカエムワセトは、『守護する者』が真横の壁から飛び出してきた所で、剣を振るった。


 刃を中心にして、大蛇の身体が大きな口から水平に真っ二つに分かれていく。そして、上下二つに分かれた『守護する者』の身体は、床に落ちると形を崩して泥水となり、やがて焦げ付くような音を立てながら干上がると、細かい粒子となって宙に消えていった。


 そこには魔術がかけられた矢が一本、残された。

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