第46話 ライラの矢

「やだ、なにこれ」


 屋上に到達したライラらは、突然神殿が白い光を帯びた事態に慌てた。しかし、巨大なものがぶつかる轟音と共に神殿が揺れた事で、ライラらは屋上の手すりから身を乗り出して下を覗き込んだ。


 ラムセス二世が操る石像がアペピの尻尾で張り飛ばされ、操縦者もろとも神殿の壁に激突したのである。運よく石像と壁の間の隙間に転倒して、圧死を免れたラムセス二世だったが、片脚を挟まれてしまい、身動きが取れなくなった。

 石像を動かそうと試みるも、ラムセス二世と石像を繋ぐ火花は神殿との衝突を最後に消えていた。


 アペピが機会を逃すまいと、大口を開けて襲ってきた。


 ラムセス二世は死を覚悟した。


 その時、地面から巨大な影が現れ出でた。それは、ラムセス二世とアペピの間に立ちはだかった。


「【まだ早い。お主がこちらに来るのはまだ先だ】」


 巨大な影は、ラムセス二世に黄金色の瞳を向けると、腹に響く低い声でそう言った。


「まさか……アヌビス神かよ」


 アペピを凌ぐ巨体の上に二つの直立した突起を見つけたアーデスが、信じられない面もちで呟いた。


「【オシリスの命により参上した。今宵、この者を冥界へ送ることまかりならぬ】」


「【わたしは蛇の王ぞ! 配下を悉く殺められ、黙しておれと言うのか!】」


 アペピが怒り顕わに牙をむくと、これまでで一番の暴風が吹き荒れた。


 屋上のライラ達は、飛ばされないよう必死に手すりにしがみついた。


 アヌビス神がその手に持っていた杖を振るい、アペピを張り飛ばした。天高く飛ばされたアペピは大麦畑に落下した。アヌビス神は飛び上がり、アペピが身を起こす前に、倒れたその身体の上に着地した。両脚と杖の先でアペピを抑えつけながら、共に地中へ沈んで行く。


 アペピは暴風と吠え声を上げながら、己を押さえ付けるアヌビスと共に大地の底に吸い込まれていった。


「すげえもん見ちまったな……」


 神と悪の化身の闘いを目の当たりにした援軍は、呆けたように立ちつくした。



 暴風が治まっても、ライラは体が震えて動けなかった。

 だが間もなく、神殿の白い輝きが消えていない事に気付き、本来の闘いはまだ終わっていない事を思い出した。


 この神殿の変化は、カエムワセトが起こしているに違いないと察したライラは、震える足をぴしゃりと叩いて気合を入れると、上って来た階段へと走った。


 後ろからジェトとカカルがライラを呼ぶ声がしたが、振り返っている余裕はなかった。ライラは強い胸騒ぎを感じていたのである。


★ 


カエムワセトが二階へ上がると、兵士達と魔物が闘っていた。


 弓兵が次々と矢を放つが、魔物は素早い動きで壁や天井を這いまわり、ことごとくかわしてゆく。今まで魔物を何度も影から弾きだしても一向に捕まらなかった理由を、カエムワセトは目の当たりにした。


 槍を持っていた兵士の一人が噛みつかれ、しばらく壁を引きずりまわされた後、他の兵士達の上に叩き落とされた。


 噛まれた兵士に駆け寄り助け起こしたカエムワセトは、辛うじて息のある兵士の傷を素早く確認すると、他の兵に至聖所にいるリラの元へ連れて行くよう命じた。


「負傷者は後方へ! 重症者は魔術師の元へ届けろ!」


 指示を出したカエムワセトは、足元に落ちていた弓を拾うと、隣の弓兵の矢筒から矢を一本引き抜き魔物に向けて矢を放った。


 魔物は大口を開けると、カエムワセトが放った矢をばくりと飲んだ。


「食った……」


 兵士達が青ざめた。


 カエムワセトも驚いたが、自分の放った矢が清められていない普通のものだった事に気付くまでさほど時間は要さなかった。聖なる池で清められているものは、自分達が用意した武器のみである。カエムワセトは清められた武器を探そうと視線を巡らせた。しかし、この混戦の中ではどの武器が聖なる池で清めたものか判別がつかない。


「殿下、腰の剣を使って下さい! それも清めてあります!」


 後ろから聞こえた声に、カエムワセトは驚いて振り返った。そこには、ハワラが階段に手をつきながら登ってくる姿があった。リラが負傷兵の治療にあたっている間に上がって来たらしい。


 魔物が、その金色に光る両目でハワラをとらえた事に気付いたカエムワセトは、ハワラの元へ走った。


 魔物が大きく口を開けると、その奥にある闇の中から、細い物体が伸びてきた。先程飲み込んだ矢である。魔物は口から矢を放とうとしていた。


 カエムワセトが後ろ手にハワラを守ったのと、魔物の口から矢が放たれたのは、ほぼ同時だった。


 矢尻がカエムワセトの腹部に命中しようとしたその時、駆けつけたライラがカエムワセトと矢の間に体を滑り込ませた。


 己が放った矢を背中に受けたライラの姿を見て、魔物がにやりと笑ったその隙に、数人の兵士が矢と槍を放ち、その幾つかが蛇の胴体に命中した。命中したいくつかは聖なる池で清められたものだったらしく、魔物は悲鳴を上げると壁を伝い、刺さった槍や弓をふるい落としながら、下の多柱室へ逃げて行った。兵達は、慌ただしくそれを追いかけた。


 突然目の前に飛び込んできた赤い物体の正体が直ぐには分らなかったカエムワセトは、その赤い物体に自分に届くはずだった矢が刺さっていることに気が付いた。そして、その物体が自分の忠臣の一人だと知った時、カエムワセトの心臓は強い鼓動を放った。


「ライラ! 矢を――」


 慌ててライラの背中を確かめようとしたが、両腕を掴んでライラに押しとどめられた。


「大丈夫です! 幸い、それほど深くありません。どうぞ行って下さい。早く、奴を仕留めなければ」


 カエムワセトの両腕を掴んだライラは、背中の痛みに耐えながら、カエムワセトを階段へと押しやった。


 腹心の強い思いを感じ取ったカエムワセトは、悲痛な面持ちで歯を食いしばった。


 リラがハワラを追いかけて階段を駆け上がってきた。


「二人とも。ライラを頼む」


 リラとハワラにライラを託したカエムワセトは、腰の剣を抜き、階段を駆け下りた。


 カエムワセトの姿が階段の向こうに消えた途端、ライラは前に崩れて激しく咳き込んだ。その口から、鮮血が飛沫となって飛び散る。


「――っくしょう! 肺をやられた」


 ライラは両肘で体を支えながら呻いた。


 ハワラはライラに手を伸ばしかけたが、矢を抜くわけにもいかず、何もできないまま手を引っ込めて悔しげに、顔を伏せた。


 そこに、屋上からの階段を下りてきたジェトとカカルが駆け付けた。


「何があったんだよ!」


「ジェト。あんた、弓は引けるわね」


 ライラは四つん這いの姿勢で、うろたえるジェトを見上げた。


「え? い、一応」


 ジェトが答えた。


 ライラは右肩にかけていた自分の弓を取ると、ジェトに託した。


「殿下を援護しなさい」


 と、掠れる声で命じた。


「矢がねえだろ」


 ジェトは困って言い返した。


「あるわ。一本だけど」


 ジェトはすぐに、ライラの言葉の意味するところを理解した。


「馬鹿! かなり深く刺さってんのに、不用意に抜いたりしたら死んじまうぞ」


「抜かなくてもそのうち死ぬわよ。リラ。お願い」


 ライラは、魔術師の少女に背中の矢を抜くよう頼んだ。


 リラは頷くと、ライラの前に跪き、背中に刺さっている矢を包み込むように掌を向かい合わせた。


 矢がゆっくりとライラの背中から抜けてゆき、空中で静止する。


 リラの魔術が効いているのか、矢が抜ける最中もライラは痛みに呻く事なく、出血も起こらなかった。


 リラは矢を手に取り、ジェトに差し出した。


「矢に魔術をかけたよ。この矢は一度あいつの体を覚えているから、刺されば二度と抜けない」


「じゃあ、今までみてえには逃げれねえんだな!」


「でも、討ち損じれば次に覚えたライラの体に返ってくる」


「はあっ?」


 ジェトはペナルティの大きさに目を剥いた。


「仕方ないよ。それが魔術なんだ」


 あくまで冷静な態度を崩そうとしないリラに、ジェトは反感を覚えた。しかし、ライラの「ぐだぐだ言うな!」という叱責の声にびくりと身体を震わせると、自分に後を任せた弓兵の顔を見下ろした。ライラの口元には、吐いたばかりの鮮血がついていた。


「余計なことは考えず、とにかく奴を狙って矢を放つのよ。いいわね」


 そう言うとライラは、ジェトに「行け!」と怒声を浴びせた。


 まるで魔法にかかったように、ジェトはダッと走りだした。


 白一色だった神殿は、徐々に本来の色と影を取り戻しつつあった。

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