第45話 最後の呪文

 空から現れた巨大な蛇の存在は、前庭で闘っている援軍も気付いた。神殿に押し入るように囲んでいた蛇達が急に動きを止め、回れ右をして散り散りに去り始めたからである。敷地内で変異していた蛇も姿を元に戻し、戦意を喪失したように岩の隙間や草むらに身を潜めた。加えて、上空から吹きつけて来る不自然なほどに冷たい強風である。


 見上げると月を飲み込みそうなほどに巨大な黒蛇が夜空に浮いていたのだから、兵士達の慄きようは凄まじかった。


「やべえ。総大将が来やがった」


 アーデスは強風に目を細めながら、身体をうねらせ真っ直ぐこちらに向かってくる巨大な蛇を見上げた。


 ラムセス二世もアーデスの隣で、同じように空を仰ぎ見た。


「あれがアペピか。まさか生きてるうちに、この目で拝めるとはな」


 アペピは、冥界を通る死者の魂を襲う悪霊でもあった。故に、死者の書にはアペピから身を守る方法も記されている。


 現世でアペピと対峙する事になろうとは夢にも思っていなかった援軍は、真っ赤な月をはめ込んだような瞳を持つ巨大な黒蛇の恐ろしくも美しい姿に、しばし茫然と見惚れた。


 とうとう、アペピが地面にその巨体を降ろした。着地音は無く、代わりにひと際大きな風がアペピの腹の下から吹き荒れた。その強風を受けて、それまで我を忘れていた兵士達が目を覚ましたように一斉に逃げだす。


「【わたしの許しなく眷族達を操っておる愚者はどこにおる】」


 ラムセス二世とアーデスの前に降り立ったアペピは、目の前の二人の人間に問うた。


 地の底から湧き立つようなその声に、兵達の何人かが身体を震わせた。


 ラムセス二世はアペピの質問には答えず、腕を組んで漆黒の悪霊を見上げると、隣の戦友に悠長に話しかけた。


「やべえな。流石にこいつには勝てる気がせん」


「右に同じだ」


 アーデスが答えた。


 アペピは自分の腹の下に散乱している蛇の死骸と、神殿の敷地内で転がっている変異した蛇の死体をぐるりと見回すと、唸るような声を出した。


「【随分と殺してくれたものだ。貴様たちにも、罰を与えねばなるまい】」


「退却させるか」


「だな」


 いよいよ身の危険を感じた二人は、勝ち目のない闘いから兵を逃がす選択をする。


 だが、屋上から軽い足音を立てて地面に着地したリラが、両手を掲げ、門前にある二体のホルス神の座像を魔術で動かした。


 一ヘクト(約五m)はあるかと思われる巨大な石像は、その体に積もった砂を落としながらゆっくりと腰を持ち上げ、立位となった。


 ラムセス二世とアーデスの体の周りに火花が散り、その火花は先程リラが動かしたホルス神の石像に触手を伸ばすように繋がった。


「なんじゃこりゃあ!」


 見えない縄で拘束されたような感覚を覚えた二人は仰天した。


「その石像を自分だと思って動かすんだよ。二人の考えたように動くから、それでしばらく時間をかせいで。私もすぐに戻るから」


 リラは踵を返すと、神殿内部へと走って行った。


 勝手に石像とシンクロさせられた二人は、あまりの無茶ぶりに愕然とした。


 辛うじて踏みとどまっていた数人の兵士達が、身体の周辺で火花を散らし続けるファラオと傭兵に、不安いっぱいな顔で近付いた。


「へ、陛下。大丈夫ですか?」


 槍兵の一人が恐る恐るラムセス二世に問うた。


「ええいっ! やってやろうじゃねえか! お前ら、援護しろ!」


 ラムセス二世は、やけっぱちに叫んだ。


 周囲から、「えええっ!」という声が上がった。その声は、驚きと言うよりは、『そんなの嫌だ』という訴えに近い。


「本当にこいつと戦うんですか?」


 確認してくる兵の声は、殆ど泣き声になっていた。


「うるせえ! てめえらも軍人なら腹括りやがれ!」


 ラムセス二世は自由にならない身体で後方の兵達に振り返ると、叱咤した。


「大体だな。相手が人間だろうが、蛇の総大将だろうが、嫁と子供を守るのが旦那の務めじゃねえか! 違うかよ!」


 ラムセス二世は鉛のように重く自由の効かなくなった腕の一本を持ち上げた。

 すると、二体のホルス神の石像のうち一体が、その動きに同調して腕を持ち上げた。


 周囲から「おおぉっ!」という歓声が起こった。


「しっかり見やがれカエムワセト。これが、親父の、生き様だー!」


 大きく右腕をふりかぶったラムセス二世とホルスの石像は、その固く握った拳をアペピの側頭部に叩き込んだ。



 残念ながら、神殿の最深部にいるカエムワセトが父の勇姿を見る事はなかった。

 

 兵達が各所へ散ると、カエムワセトは祭壇の中で光の呪文を映し出す杖と向き合った。目の前に映し出されている呪文は、これまでで最も長い。


「準備は良いか? ハワラ」


 最後にもう一度、ハワラに確認した。


「いつでも」


 ハワラが頷いた。


 カエムワセトは大きく息を吸いこむと、詠唱を始めた。


「『この部屋に居るあなたよ。生まれながらに叡智で満たされ、傷を癒す奇跡の手と言葉を持ち、時を管理する無二の神よ。願わくば我に、最後の慈悲を与えたまえ。主を失いしこの空虚な神域に、神の息吹を取り戻したまえ。その化身と引き換えに、神が宿りし像を返したまえ。ホルスはきませり。ホルスはきませり。――ホルスはきませり』!」


 祠堂に自立している杖は、カエムワセトの詠唱が始まると、ガタガタと音を立てて震えだした。その揺れは、カエムワセトの口から呪文が紡ぎ出される毎に大きくなった。そして、詠唱が終わりを迎えた時、杖はこれまでで最も強く輝き、祠堂から姿を消した。


 杖の代わりに祠堂に現れたのは、プタハ大神殿に移設されていた、かつてのこの至聖所の主。ホルス神像であった。


 ホルス神像が姿を現すと、ただちにカエムワセトがその像の胸元に両手を触れた。

 ホルス神像が白い輝きを放ち、辺りは何も無い真っ白な空間に変わった。だがよく見ると、壁やレリーフの凹凸は存在しており、全ての色と影だけが取り除かれた状態である事が分った。


 カエムワセトは肩で息をしながら、ややふらついた足取りで白一色となった至聖所を見渡した。


「上手くいった。――ハワラ!」


 カエムワセトは傍で倒れているハワラを抱き起こした。呼吸が確認でき、気絶しているだけだと分り胸をなでおろした。


「カエムワセト! アペピが来たよ!」


 安堵したのも束の間。リラが、最も恐れていた存在の来襲を告げに来た。

 続けて、頭上で兵士達の叫び声が聞こえた。兵士達とあぶり出された魔物が闘いを始めたのである。


「リラ。ハワラを頼む」


 カエムワセトはラムセス二世から貸し与えられた剣の柄を握りしめると、リラにハワラを託し、自分は二階へと急いだ。

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