第43話 奥の手
神殿の屋上の松明の一つが、パチリと軽い音をたてて弾けた。
杖を掲げ落雷を起こしたカエムワセトはその音に、はっと目を見開くと「イエンウィア」と、こぼした。下ろした杖を握り締め、蹲る。
神官二人の死を感じ取ったリラが、カエムワセトの手を強く握った。
「今は駄目だよ、ワセト。心を静めて」
カエムワセトの目を除きこみ、「落ち着くんだよ」と何度も言い聞かせた。
「ワセトが負けたら、みんな死ぬよ」
やや強めの口調で言ったリラの言葉が、カエムワセトに平静を取り戻させる助けとなった。
再び立ち上がったカエムワセトは、前庭で闘っているラムセス二世に呼びかけた。
「父上。援軍の一部を神殿内へ! 減った分は私が援護します!」
ラムセス二世が頷き、近くの兵十数名を神殿に走らせた。
カエムワセトは両腕を広げると、残っていた隼の石像の全てをはばたかせ、一斉に前庭へ向かって飛びこませた。腕の動きに合わせて方向転換を繰り返させ、何度も、蛇の群れを襲わせた。その間にも、杖が発する光の文字を詠唱して神殿内に呪文を放った。
三度目の蛇の悲鳴が、神殿内に響いた。
重ねて繰り出した魔術は、カエムワセトの身体に相応の反動をもたらしていた。
しかし、カエムワセトは膝をつく事も、咳こむ事もしなかった。もう、身体を休ませる暇はおろか、苦しむ余裕さえ無くなったのである。
「ここから先は気力勝負だ。勝ってみせる」
カエムワセトの独り言を、ハワラは聞いた。
そう言ったカエムワセトの表情は、苦しさの中にも、ハワラがこれまでカエムワセトに見た事がないほどの闘志が燃えていた。その姿は勇猛たるもので、戦場での父王、ラムセス二世を彷彿とさせた。
★
神殿内では駆けつけた援軍が、残りの蛇と闘っていた。
魔物は何度影からはじき出されても、驚くほど素早い動きですぐにまた影に身を潜めた。
「あいつ、消耗戦を狙い始めたわね」
ライラが忌々しげに舌打ちした。
カエムワセトの攻撃に耐えながら、ひたすら影に身をひそめて機会を待ち、その間、次々と蛇を投入することで、こちらを疲弊させるつもりのようだと、ライラはジェトとカカルに説明した。
しかも、前庭の戦線を潜りぬけて神殿に侵入する個体が現れ始めた。神殿を襲う蛇の数が増しているのである。これでは蛇の処理ばかりに追われて魔物の捜索どころではない。
とうとうライラ達も、神殿内の壁際で巨大化した蛇数匹に囲まれた。悲しい事に、ライラの矢筒はもう空であった。
「だめだ。蛇の数が多すぎる」
壁に背をつけたジェトが、泣きごとを言った。
「ちょっと、ジェト。あんたの名前『コブラ王』でしょ。こいつら巣穴に帰るように説得しなさいよ」
カカルを挟んで反対側にいるライラが、蛇に睨みを利かせながらジェトに言った。
ジェト、とはエジプト第一王朝四代目のファラオの名である。その名の意味は、『聖なるコブラ』。
「冗談言ってる場合か。できるわけねえだろ」
皮肉にも育ての親から蛇の王者の名を頂戴していたジェトは、全く笑う気になれず冷たく返した。
ライラは柳眉を逆立てる。
「こんな時に冗談言うわけないでしょ! できないんだったら蛇使いに習っときなさいよ! ご大層な名前名乗ってるくせに役に立たないわね!」
イエンウィアの首を斬って落ち込んでいるかと思いきや、ライラは理不尽な罵倒でジェトをめった打ちにしてきた。
ジェトは泣きたくなった。しかしそこでしょぼくれるほど、ジェトも可愛い性格をしていなかった。負けじと睨み返し、ライラの無茶苦茶な言い分を跳ね返した。
「俺の名前についてご不満があるなら、お頭に言ってくださいな!」
「独立した身でお頭に責任転嫁するんじゃないわよヘタレ盗賊!」
「黙れヒス女!」
負けず嫌いの二人の間で悪態の応酬が続き、その間、蛇への注意は途切れていた。
「あにき」
カカルが震える手でジェトの袖口を引いた。
「あ、あにき!」
「なんだよ!」
二度目の呼びかけでジェトがようやく返答を返した時、三人の前には巨大化した蛇の山ができ上がっていた。
人一人分の大きさの蛇が集まっているそれは、お互い長い身体を絡み合わせながら、まるでピラミッドのように天井近くまで上へ上へと重なっていた。それらの目は全て、壁際にひっついている三人の人間に向けられていた。
三人は蛇のピラミッドを前に、しばし言葉を失った。
「……なんじゃこりゃ」
ジェトが愕然と呟いた直後、最上部の蛇がぐらりと揺れた。それを機に、山となっていた蛇は上の方から崩れるように、次々に三人の頭上に落ちて来る。
三人は絶叫しながら、散り散りになって逃げた。
★
あいもかわらず、神殿の外周は蛇の大群に囲まれていた。援軍がどれほど駆除しても、ありとあらゆる種類の蛇が湧きでるように押し寄せて来るのである。その数は、メンフィス中の蛇どころの騒ぎではなかった。
「数が多すぎる。よくないね」
数を増す一方の蛇の大群を見たリラが、表情を険しくした。
追っている魔物がアペピでない事は確かだが、アペピはエジプトの蛇を統べる存在である。これほど大量の蛇を動かしたとなれば、気付かれない保証はない。しかも援軍は蛇に圧されて、徐々に後退していた。
「ああ。早くカタをつけないと」
アペピに気付かれるリスクを冒してまで蛇を投入してくるということは、相手もそれほどに追い詰められているという事である。しかし、この事態に気付いたアペピが戦場に加われば三つ巴の戦いとなり、それはそれで非常に厄介である。
アペピが戦場に出張って来る前に、闘いを終結させなければならない。カエムワセトは考えを巡らせ、一つの案に辿り着いた。
「リラ。私に代わって、ファラオの援護を頼めるか?」
「うん、いいよ」
リラに援護役を任せて階段を下りようとしたカエムワセトを、ハワラが呼びとめた。
「どこ行くの?」
「至聖所だ。奥の手を使う」
答えたカエムワセトに、ハワラは拳を握って「僕も行く!」と、同行を願い出た。
しかし、カエムワセトはそれを受け入れなかった。
「ハワラはここに居たほうがいい」
そう言い残し、階段を下りかけたが、巨大化した蛇が階段を這って来たので足を止めた。
剣を抜こうとしたカエムワセトに、リラが声高に言った。
「蛇は任せて。飛び降りるんだよ!」
カエムワセトはリラに振り向き頷くと、階段の途中から飛び降りた。
着地したカエムワセトは、すぐに神殿内部への入り口を目指して走る。しかし、頭上から「ハワラ! 危ないよ」というリラの声が聞こえ、立ち止まり屋上を見上げた。
ハワラはカエムワセトを追いかけようとしたが、蛇に邪魔され階段を下りられなかった。故に、自分も同じように飛び降りようと手すりから身を乗り出していたのである。しかし、十二歳の小柄な少年に、屋根の高い神殿の屋上は飛び降りるには高すぎた。
「一緒に行かせて! 役に立ちたいんだよ!」
手すりにしがみつく格好で、ハワラがカエムワセトに訴えた。
カエムワセトは束の間迷った末にハワラを呼んだ。両腕を広げ、「来い!」と叫ぶ。
「うん!」
大きく頷いたハワラは、迷わず手すりから飛び降りた。
カエムワセトは落ちてきたハワラの身体をしっかりと抱きとめると、下におろした。
「中は蛇だらけだぞ」
「分ってる。ちゃんと王子を守るよ」
真剣な顔で一人前の口をきいたハワラに、カエムワセトは思わず微笑んだ。
屋上にはリラ一人が残された。リラは、階段を這いあがって来た蛇と対峙した。
下で散々人間に追いまわされて興奮状態に陥っている蛇は、鼻から細い威嚇音を立てた。
「大地を守りし者達よ。何ゆえ我に毒牙を向けるか。去らねばその身を焼き尽くすぞ」
小さく紡いだ警告の呪文むなしく、蛇はリラに飛びかかった。
次の瞬間、蛇の身体が炎に呑まれた。炎に包まれた蛇の身体はリラに達する前にぼとりと鈍い音を立てて落ち、あっという間に黒く燃え尽きた。
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