第42話 旅立つ者 【残酷描写あり】
一方、神殿内でも想定外の事態が起こっていた。援軍が外周の守りを固めているにも関わらず、神殿内に巨大化した蛇が発生し始めたのである。
イエンウィアを含めた神官四名は、神殿の奥に発生源があると考え、礼拝室をぐるりと囲む回廊に出た。そこでまた、一匹斬った。
高い壁に囲まれた回廊は圧迫感があった。色彩豊かなレリーフも、魔物が放つ瘴気に触れているせいか、松明の光に揺れている様が怪異に見えた。
何か見落としている点があるはずだと、神官達は周囲に目を凝らしながら進んだ。すると、前方の壁側に人一人通れるほどの下り階段が姿を現した。中は真っ暗で、かすかに水の臭いがする。
「ナイロメーターか!」
神官達は顔を見合わせた。
ナイロメーターとは、ナイル川の増水具合や水の透明度を測定する建築物である。多くは井戸のように垂直に掘られた物や、水面下まで続く階段状の二種類が存在した。ホルス神殿に造られたナイロメーターは後者であった。今は増水期前の、水位が下がっている時期である。つまり今現在、このナイロメーターは外と神殿内を繋ぐ通路そのものなのである。
階段の下から、水音とともに幾つもの生き物の気配が近づいてきた。
一人は足の悪い母親と乳呑児がいる。もう一人はもうすぐ生まれる初孫を楽しみにしている。
パバサとイエンウィアは、腹を決めて前に出た。
★
ライラとジェトとカカルの三名も、蛇の発生源を求めて神殿の奥に足を踏み入れた。奥へ進むに従い、腐敗臭のような悪臭がどんどん強くなる。
「血の匂いよ」
ライラが息を詰まらせた。もはや吐き気を催すほどのどす黒い臭いで、三人は鼻を覆いながら回廊を進んだ。
角を曲った所で、大慌ての神官二人と蜂合わせた。
「ナイロメーターから蛇が侵入している!」
「イエンウィアとパバサが食い止めてるが、塞がん事にはどうにもならん!」
ライラは神官二人をカエムワセトの元へ向かわせ、自分達は先へ急いだ。
次の角を曲った所で、目の前に広がった光景に息をのむ。
巨大化した大量の蛇の死骸と血溜まりの中で、神官二人が倒れていた。
一人は手に槍を握ってはいるものの、首があらぬ方向に曲がっており、既に息絶えていることが分った。パバサである。
もう一人は、腹に蛇の牙が刺さっており、そこから大量に出血していた。彼の傍には、見覚えのある二振りのケペシュが、刀身に血を付着させた状態で転がっていた。
「イエンウィア!」
悲鳴を上げるように馴染みの神官の名を呼んだライラは、腹に牙が刺さった神官に駆け寄り、抱き起こした。
「大変。凄い血っスよ」
傷口を見たカカルが慌てふためいた。
イエンウィアの腹部に刺さった牙は中心が空洞になっており、余計に出血を促していた。
「次が来る。早く、塞がなければ」
イエンウィアがナイロメーターを震える手で指差し、苦しげに言った。
「大丈夫。殿下に報告が行ったから」
ライラの言葉に、イエンウィアは「そうか」と安堵の表情を見せた。そして先立ったパバサに顔を向けると、悲しげに微笑んだ。
「あいつは運がいいな。苦しまず逝けた」
「立てる? あなたも殿下の所に。早く血を止めないと」
ライラはジェトを呼び寄せ、左右からイエンウィアを抱きかかえようとした。
イエンウィアは自分の上半身を持ち上げたライラの手を握ると、ゆっくりと首を横に振った。
「クサリヘビの毒牙だ。もう助からない」
クサリヘビは毒蛇の一種である。噛んだ相手の臓器の出血・壊死を起こさせ、最後は死に至らしめる。傷口を塞ぎ出血を止めた所で、落命は免れられなかった。
「ライラ。一生に一度の頼みだ」
イエンウィアは掠れる声で言った。殺してくれ、と。
これは好機か。それとも試練か。イエンウィアにとって、今この瞬間はどちらでもあった。しかし、試練だとしたら、確実に負けたのである。
愛を告げる事も、抱きしめる事も、イエンウィアはとうの昔に諦めていた。だが、命を奪わせるこの行為は、今わの際で愛を告白するよりも、イエンウィアの存在をライラに深く刻みつけることだろう。
傷を塞ぎ、内臓が毒に侵され動きを止めるまで待つ事が、最も誠実なやり方である事を知りながら、イエンウィアの心はそれを拒んだのである。
感謝の念を覚えている相手に頼む事でないのは、承知の上。
結局、最後の最後で本性が出たのかもしれない。
イエンウィアは己を恥じた。なんと愚かで浅ましい事か、と。自分の性根は、弱いままであったのだ、と。
「わかった」
ライラの声が聞こえ、身体が再び寝かせられた事を感じた。既にイエンウィアの目は、視界を鮮明に映していなかった。ただ、ライラの豊かな赤髪だけは、はっきりと識別できた。
イエンウィアは心の内で己を慕う後輩に詫びた。
すまないカエムワセト。私は今からお前の大切な人の心に傷をつけるよ。生涯残り続ける傷を。
イエンウィアにとって、これは明らかにカエムワセトへの裏切りであった。この行いは、オシリスの御前で告白すべき罪になるのだろうか、と、ふとよぎる。
喉元に硬く冷たいものが触れたのを感じた。刃だ。微かに震えている。
イエンウィアは瞼を閉じた。両の眦から熱いものが溢れ、耳へ伝った。
イエンウィアの唇が最後に紡いだ言葉は、感謝でも別れの挨拶でも、神々への祈りでもなかった。
ゆるしてくれ。
しかし、声にはなっていなかった。
耳が壊れそうな雷鳴と、視力を奪うほどの稲光が二度起こり、神殿の天井の一部を壊し、続けてナイロメーターに落雷した。落雷はナイロメーター周囲の石壁を砕き、蛇の通り道を塞いだ。
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