第34話 アーデスとライラ

 さて、こちらはホルス神殿内部。イエンウィアがジェトのボヤキを聞いていた丁度その頃。神殿の二階部分を片付けていたアーデスは、太陽が西へ傾いていくとともに元気をなくしていく相棒を困った面持ちで見やった。


 ホルス神殿奪還作戦では見事単身で神殿に乗り込み、数十人の男達を再起不能にした豪傑のライラだったが、水を得た魚のように活気に満ちていた姿は、今の彼女には微塵もない。


 ライラは部屋の片づけもままならない様子で、椅子に座り、壁の角を凝視しながら、「大丈夫、私ならできる……」と何度も繰り返しつぶやいている。


 アーデスは半ば精神が崩壊しかけているライラに「よぉ」と声をかけ、隣にしゃがんだ。


「人には、向き不向きってのがある。今回はもうやめとけ」


 な? と肩に腕を回し、その身を優しく揺すってやる。


 軍人であるライラの身体は日々の鍛錬で鍛え上げられてはいるが、アーデスや他の兵士達と比べると、明らかに細く小さい。アーデスの片腕にすっぽり収まってしまうサイズのライラは、どんなに喧嘩が強くとも、やはり女性であることに変わりは無かった。

 普段ライラを異性としてみないよう心がけているアーデスだが、ここまで密着すると、つい髪の匂いの一つでも嗅ぎたくなってしまう。


 三十路に突入した相棒が不埒な葛藤に苦しんでいる事など知りもしないライラは、彼の優しさをと包容力の塊を乱暴に払いのけた。


「そんな選択枝、わたしには無い!」


 膝を抱えて丸まってしまう。


 腕を払われたアーデスは、子供じみた振る舞いで自分の忠告を聞こうとしないライラをじれったく思った。


「だがなあ、お前。そんな調子じゃあ――」


 死んじまうぞ、という決定的な言葉を出しかけ、慌てて飲み込んだ。

 過剰な恐怖は身体をすくませ、思考を鈍らせる。そんな状態で戦場に出たらどうなるか、軍人であるライラなら分っているはずである。戦いの幕開けを目前にした今、ライラのトラウマは、もう笑いごとでは済まされない。

 仲間の足を引っ張るかもしれない。自分が命を落とすかもしれない。

 それでも戦線を離脱せずしがみつこうとするのは、ライラが並々ならぬ感情を、カエムワセトに抱いているからである。


「いくらあいつに惚れてるからって、そこまですることなかろうが!」


 苛立ちに任せて言ってしまってから、アーデスは失言に気付いて固まった。だが、覆水盆に返らずとはこのことである。全身真っ赤になったライラがアーデスを豪快に張り倒したのは、失言から一秒足らずの事であった。


「そそそそそんなおおおぉ恐れ多いこと、あんたよく言えるわね! わたしはねえ! ただひたすら! 殿下の御身を! お守りしたいだけなのよ!」


 ライラは、どもりながら拳を握り、足元に横たわっている男を半狂乱で怒鳴りつけた。


「わかった! 俺が悪かった! わかったから落ち着けライラ!」


 過去にも一度同じような目に遭ったアーデスは、くっきりと指の跡がついた左頬を手で覆いながら、戦いを前に無駄にダメージを負う原因となった己の失言を後悔した。


 前回は、今のようにひたすら謝り宥めて、落ち着かせる事が出来た。しかし今回は、どれだけ謝ってもライラは怒りを鎮めてはくれなかった。

 そしてライラはアーデスに、カエムワセトの従者になる決意をするに至った経緯を語りだしたのである。


 ライラとカエムワセトが八歳の頃。二人はナイル川のほとりで、はぐれた雄牛に襲われた事があった。ワニにでも噛まれたのか、雄牛は足を怪我しており、ひどくいきり立っていた。ライラを標的に決めた雄牛は、迷わず突進してきた。


 その時、ライラは不幸にも足首をくじいたばかりであった。それでもライラは、牛がとびかかってくる寸前で身をかわそうと、構えた。そこに飛びこんできたのがカエムワセトである。


 カエムワセトは体当たり同然でライラを雄牛から逃がした。

 二人はそのまま斜面をゴロゴロと転がり、最後は川岸に落ちた。


 雄牛はライラとカエムワセトが転がっている間に、周りの大人達に取り押さえられた。


 身体の回転が止まり、いち早く身を起こしたライラは、目の前でまだ横たわっているカエムワセトの腕を引いて起こすと、礼を言う前に『何故殿下がわたしを助けるのです!』と詰問した。


『お言葉ですが、殿下より私の方が――』


 失言を承知で口にしかけたライラに、そうじゃないよ、とカエムワセトは制した。


『足をくじいていたってライラが私より強いのは、私もよく分かっているよ。でも』


「『ライラには将来、誰かの母上になって欲しいから』って仰ったのよ」


 カエムワセトがライラを守ろうとしたのは、女は弱き者。男は弱き者を庇うもの、といった、世間一般的な観念によるものではなかった。もし腹を蹴られれば、子を産めない体になる恐れがある。腹でなくとも、一生患う怪我を負うかもしれない。


『それに、母上が苦しんでいる姿は、見ていて辛いものだよ』


 カエムワセトは、そうも言った。

 目の前にいる少女の未来だけでなく、まだ存在していない少女の子供の事までも。

 彼はただ、実直に他人を思いやっていた。

 道徳に縛られない真の優しさを、ライラは初めて知った。


「びっくりしたのよ。子供心に、こんな人はどこにもいないと思った。だからこの人は絶対に私が守ると決心したの!」


 そして少女時代のライラは、約束された貴族娘の華やかな将来を捨て、軍人への道を選んだのである。


「殿下をお助けする。それが私の幸せで、使命なのよ! だからお願い! 闘わせて頂戴!」


 思い出話を終えると同時に懇願し、号泣しだしたライラを前に、アーデスは閉口した。ライラがカエムワセトに対して複雑な感情を抱いている事は、アーデスも何となく察してはいた。しかし、これほどまでにこじらせているとは思わなかったのである。


 恋と、憧れと、尊敬と、忠義心。


 これらを全て一人の人間に対し抱いているのだから、始末が悪いというか哀れというか。


「わかった、もうやめとけなんて言わねえから。とりあえず泣きやめ。そうだ、何か甘いもんでも食うか?」


 幼い子供のように直立不動で大泣きするライラに、アーデスは困り果てた。


 アーデスが連れて来たプタハ大神殿の神官たちが、何事かと覗きに来た。そして、うら若き乙女を泣かせているむさ苦しい男の姿を見た神官たちは、一様にアーデスに非難の視線をあびせた。


「見せもんじゃねえ!」


 弁明する余地も与えられず、一方的に加害者の烙印を押されたアーデスは、威嚇して神官たちを蹴散らした。

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