第七章 繋がる絆

第33話 ジェトとイエンウィア

 カエムワセトは疲労困憊していた。まず一つ目の理由として、人間三人をメンフィス王宮の池からぺル・ラムセス王宮の池まで転移させた事が挙げられる。


 古代エジプトは魔術大国ではあったが、転移などという大技を使う機会はそうそう無かった。転移には莫大な魔力を要し、また、制約が存在するからである。


 例を上げるとすれば、蛙一匹をメンフィスからぺル・ラムセスに転移させるには平均的な魔力を持つ神官二名が必要とされた。加えて、水なら水、岩なら岩と、同じ要素同士でしか出入り口を繋げない。つまり転移とは、エネルギー効率が絶望的な非生産的御技なのである。


 しかし、幸いにもカエムワセトは希にみる高い魔力の持ち主であった。リラの助けを借りる必要はあったが、一歳の子供とその母親。そして乳母の三人を父王の元へ送り届ける程度であれば、魔力を枯渇させず達成できたのである。しかし、それ相応に疲れという形で反動はやってきた。


 二つ目に、カエムワセトがリラと共に王宮での一仕事を終えてホルス神殿に到着すると、アーデスが伴って来たプタハ大神殿の先輩神官三名がおかんむりで待ち構えていたのである。


 本来の業務を妨害された上に、敵に関する情報も大して与えられないまま共闘を強いられたのだから、怒って当然であろう。特に、パバサというイエンウィアと同年代の槍使いの神官は、一等腹を立てていた。


「これで機嫌直る?」


「俺は猿ではない」


 リラが齧りかけのデーツ一粒でパバサを懐柔しようとしたので、カエムワセトは大慌てで二人の間に割って入った。そして、業務妨害を詫び、丁寧に状況説明をした上で改めて助勢を求めた。また、それだけにとどまらず、戦いを終えたら滞った業務が通常に戻るまで、無給で働くと約束したのである。


 無茶な約束をしたな。とイエンウィアは苦笑った。


「あの三人分を補うのは大変だぞ。お前も暇ではあるまいに」


「そうだけど、誠意を見せるにはこうするより他になくて」


 背に腹は代えられなかったのである。むしろ、無給労働を交換条件に身体を張ってもらえるのならば、安いものであった。


 そして極めつけ。カエムワセトは、重い体を引きずるようにして中庭の聖なる池に向かった。魔術を用いて枯れた池を再び清水で満たす為である。


 池が元の姿を取り戻した時、とうとうカエムワセトの疲労はピークに達した。強烈な眠気と倦怠感に襲われたカエムワセトは、立ち上がる事すらままならず、その場に突っ伏すと深く眠ってしまった。


 疲労困憊で倒れたカエムワセトは、聖なる池の傍で転がっているその姿をアーデスに発見され、一時現場を騒然とさせた。しかし、当の本人は担がれている間も、神殿の一室に寝かされた時も、赤子の様に熟睡していたので、一連の騒ぎについては何も知らないのである。



 指揮官であるカエムワセトが神殿内の一室で眠っている間も、戦いの準備は滞りなく進められていた。それぞれが戦いに備えて本格的に、荒れた神殿の片付けや仕掛けの準備に勤しんだ。


 礼拝堂に散乱していた邪魔な粗大ゴミを前庭に運び出していたジェトは、外壁の外周に水を撒きながら、呪文らしきものを唱えているイエンウィアを見つけて近づいた。


「何やってんの?」


「聖水を撒きながら蛇除けの呪文を唱えている。結界の働きをしてくれるんじゃないかと期待してるんだが、実際どれほどの効力を発揮してくれるかは、なんともな」


 イエンウィアの歯切れの悪い物言いに、ジェトは「ご謙遜」と笑った。


「書庫であれだけ派手にやっといて、よく言うぜ」


「あれはトトの書の力だ。私のではないよ」


「え? 王子は、あんたは凄い奴だって言ってぜ」


「光栄だが。魔術に関して私は平均的だ」


 才能において標準の域を脱しない自分は、どこにでもいる神官だと、イエンウィアは語った。

 更に彼は、書庫でトトの書を使った理由として、カエムワセトの不安を和らげる為であったと説明した。未知の領域に踏み出す一歩が怖くとも、最初の誰かが先に進めば決心がつきやすい。例え悪ふざけでもイエンウィアが一度トトの書を使って見せれば、カエムワセトも腹を決めるだろう。そう考えての行動だったのである。


「まあ、単なる興味も大いにあったが」


 最後にイエンウィアは、悪戯っぽく笑って締めくくった。


 意外なことに神官の手本のようなこの男にも、お茶目な一面があったらしい。

 イエンウィアがカエムワセトのメンター役を担っていると理解したジェトは、二人の共通点を感じた。己の力量を過信しない所がよく似ている。

 ジェトは目の前に広がるだだっ広い麦畑を眺めると、


「一体何見て生きて来たんだかなぁ」


 ぽつりと零して、しゃがみ込んだ。


「いきなりどうした」


 感傷的な顔でうんこ座りをした少年の頭頂部に、イエンウィアが訊ねた。


 ジェトは「はぁ~」と、物憂げにため息を吐いた。


「王族は横柄。神官は頭でっかちで鼻もちならない。神様なんてもんは、本当はいないと思ってたわ」


 だが実際は、エジプトの第四王子は人好きのする男で、神官は業務に忠実なだけであり、神も魔物も自分達のすぐ近くに存在するのである。


 信じていた事柄がここまで悉く覆ると、景色すら違ってみえた。これまでは殺伐として、肌に当たる風さえ刺々しく感じていた薄ぺらな世界が、今は縦にも横にも果てしなく、空虚だった。風が吹いてもどこにもひっかからず体表を滑るばかり。代わりに得体のしれない気配を至る所に感じはじめ、薄気味悪かった。


 なるほど、とイエンウィアは頷いた。

 多感な年頃には、起こりがちな現象である。同じような経験は、イエンウィアにもあった。もう十年以上前ではあるが。


「若いな、君は。いいことだ」


 イエンウィアはそう言って聖水の入っている壺を足元に置くと、腕を組んで壁にもたれかかった。ジェトは、この男が初めて姿勢を崩すのを見た気がした。


「カエムワセトから聞いたが、君はずっと盗賊団にいたんだろう? 狭い世界にいたのなら、物の見方が偏るのも仕方のないことだ。君は感性が鋭く真っ直ぐな人物のようだし、これからカエムワセトの傍にいれば、もっと多くを知れるだろう」


 人を拒まないカエムワセトの周りには、多種多様な人間が集まるのが常であった。この場だけでも、兵士に傭兵、魔術師に元盗賊に神官、平民である。見事、毛色の違う職業ばかりで人間性もまちまちであった。それが皆、各々の意思でカエムワセトという人物の元に集っている。視野を広げるには最適な場所であろう。


「悪いけど、俺もカカルも、この仕事が終わったら自由の身になるんだ。第四王子との縁はここまでだよ」


 イエンウィアは、おや、と目を丸くした。達観しているような事を口にした割にその声は寂しげである。麦畑をぼんやり眺めている姿も、自由を待ち望んでいるようには見えなかった。


「そうか。随分馴染んでいるだけに、残念だな」


 イエンウィアはわざと突き放すように言って、ジェトが心の奥底にある本心を見つけ出せるよう試みた。ジェトはムッとして上を向いたが、イエンウィアの含みのある笑顔を目の当たりにすると、まんまとしてやられた事に気付いて苦い表情を作った。


 二人は暫く黙って麦畑を眺めた。


 突如、神殿の二階部分から女性の号泣が聞こえた。驚いたジェトとイエンウィアは身体をびくりとふるわせると、声のした方を仰ぎ見た。


 よく通る張りのある声であることから、ライラだと分かった。


「――だからお願い! 闘わせて頂戴!」


 頭上から聞こえてくるライラの泣き声は、誰かに必死に訴えていた。


 それにしても、色気のない泣き声である。

 ジェトは声のする方を見上げたまま、「なあ」とイエンウィアに呼びかけた。そして、「あんたはライラにゃもったいねえと思うぜ」とちょこざいな事を言った。


 イエンウィアはしばらく無表情にジェトを見ていたが、やがて小さく笑った。


「若いのはいいことだが、軽率な発言は控えた方がいいな」


 足元の壺を拾い上げると、ジェトの頭頂部に軽いゲンコツを一つ落として悩める少年の人生相談を終わらせたイエンウィアは、そのまま神殿に入って行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る