第28話  トトの書の力

「敵の居場所が掴めないのであれば、誘い込むしかないだろう。蛇の魔物に街で暴れられてはたまらない」


 書棚の前で、イエンウィアが文献を物色しながらカエムワセトに意見を述べた。


 『邪悪の目をそらす法』『悪霊を追い散らす法』など、彼は気になる書物を次々と流し読んでは、棚に戻したり、カエムワセトに渡していく。


 カエムワセトは自分でも資料を探しながら、イエンウィアから指し渡される資料の箇所に目を通しつつ、意見に答えた。


「しかし、どこに誘い込むかが問題なんだ。建物内が理想的なのだが、王宮は広すぎるし、神殿は魔物を拒絶するから」


 カエムワセトの中では、ある程度戦法はまとまってきていた。だが、戦場をどこに選ぶか、その問題が解決できていなかったのである。


 書庫の大机では、ジェトとカカルとハワラが、イエンウィアが昼食にと持ってきた惣菜パンを手にぼんやりと座っていた。特にやる事も無く、パンを噛っては、ラクダの様な、のろのろとした咀嚼で与えられた昼飯を消化してゆく。


「神官さんは本を読むのも早いんスねー」


 カカルが野菜と肉とチーズを入れて焼いたパンを頬に溜めながら、のんびり言った。色違いのショールを斜め掛けした神官二人は、アーデスとライラの倍はあるかというスピードで書物をさばいていっている。


「あんたたちも手伝いなさいよ!」


 別の机に陣取っているライラが、『蛇の生態』という巻物を手に、三人に怒鳴った。

 ライラとアーデスは、フイが集めた資料に目を通す役割である。ライラとアーデスの前には、未読の書物が山とあった。


「だって俺ら、字、読めねえもん」


「平民の識字率の低さをなめてもらっちゃ困るっス~」


 とりあえず形だけでもパピルスに手を伸ばしたハワラに対し、ジェトとカカルは堂々と無知を前面に押し出して机に突っ伏した。


 そこにリラが、一枚のパピルスを手に、トコトコと歩み寄る。


「絵もちゃんとあるよ」


 ホラ、と三人に見せたリラは、楽しげに目を細めた。

 そこには、冥界の神オシリスの審判に導かれている人物の絵と、審判を受ける際に必要な呪文が書かれていた。


「死者の書って面白いね」


 リラは歌うような調子で無邪気に言った。


 『死者の書』は庶民もよく知る書物である。何故ならそれは、死後に迎えると言われている障害や審判を乗り越えて楽園に到達するための必須アイテムだからであった。


「それ、死んだ時に一緒に埋葬してもらうやつだぞ」


「縁起でもないっス」


 リラに悪気が無いにせよ、魔物との戦いを目前にして死者の書を持って来られた三人は、一様に青ざめた。


「そういえば――」


 イエンウィアが何か思い出したようにカエムワセトに話しかけた。


「フイ最高司祭が瞑想明けに仰っていた。『間もなく、蛇という蛇が意思を無くすかもしれない』と」


 フイは瞑想明けによくこのような詩的な文句を口にする。それは、過去の事象であったり、今現在別の場所で起きている出来事であったり、時には未来を予言する事もあった。イエンウィアが知る限り、過去・現在は見事なまでに言い当てるのだが、未来の的中率は低かった。故に余計に思いだすのが遅れたのだが、カエムワセトから事情を聞いた今では、意思を無くした蛇達がどういう行動をとるかは、ある程度想像がつく。


「蛇に王宮を襲わせるつもりか」


 表情を険しくしたカエムワセトに、「王宮だけならまだよいが」とイエンウィアが嘆息した。そして彼は、核心を突く質問をする。


「その魔物だが、本当にアペピの使い魔なのか?」


 カエムワセトは「それが……」と言い淀むと、小さくため息をついた。


「可能性だけで、確証はないんだ。フイ司祭に見て頂ければ何か分るかと思ったんだが」


 ハワラの目の奥を覗き見たフイが口にした言葉は、『ナイルの底に縛られた影』である。抽象的すぎて敵の特定には至らなかった。


 魔物の正体も目的も分らないまま対策案を模索していると聞いて、イエンウィアは「無謀な事を」と呆れた。


「お前にゃトトの書があるだろ。そいつで何とかならんのか」


 アーデスが疲れた様子で手元のパピルスから顔を上げた。読み物はもう、お腹いっぱいのようである。

 カエムワセトは帯に挟んだ麻袋にそっと触れた。その中にはトトの書が入っている。


「正直、自信がないんだよ、アーデス。とてつもない力を感じるだけに、私に使いこなせるのか」


 カエムワセトは弱腰になっていた。精力体力ともに横溢した年頃の若者にしては珍しく、カエムワセトは非常に謙虚な性格をしている。若い頃にはファラオと連れ立って良くも悪くもブイブイいわしてきたアーデスとしてはカエムワセトのそういう所は美徳に感じる訳であるが、今は士気の低下に繋がる。大将たる者、例え虚勢であってもふんぞり返っていなければならない時があるのだ。


 アーデスが一言もの申そうと口を開きかけた時、イエンウィアが「なるほど。それがトトの書か」と進み出た。


「見てみても?」


 手を出して求めたイエンウィアに、カエムワセトは袋を開けて巻物を手渡した。

 イエンウィアは巻物を広げると、しばらくそれを眺めた。そして彼は


「『我は知恵の神トトの名代、またはその人なり』」


 あろうことか本文を朗読しはじめた。

 突如、地の底から湧き上がってくるような轟音が響きだした。続いて分厚い石壁がビリビリと震え、揺れる書棚からは積もっていた埃が舞い落ちる。


「なになになに!」


「地震スか!」


 ライラとカカルが飛び上がった。


 ただの地震でない事は、イエンウィアがパンと一緒に持ってきた水差しの中の水が空中で渦を描きだした事で明らかになる。これは間違いなくトトの書の力であった。


「待てイエンウィア!」「おいおい!」


 慌てたカエムワセトとアーデスが、見事な朗詠を披露するイエンウィアを止めようと手を伸ばす。


 しかし、二人の手が届く前に、イエンウィアはぴたりと朗詠を止めた。にこりと笑い「冗談だ」と言う。


「――しかし、これではやはり郊外でないと無理だな」


 さわりを読んだだけで地震を起こす騒ぎである。街中での使用は不可能であろう。

 イエンウィアは涼しい顔で巻物を戻すと、カエムワセトに返した。


 イエンウィアの大胆すぎる行動に言葉を失ったまま、カエムワセトはトトの書を受け取った。


「もう嫌。ぺル・ラムセスに帰りたい」


 ライラはとうとう机に突っ伏して弱音を吐いた。

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