第25話 奇怪な司祭

 入室した途端、小麦と蜂蜜を焦がしたような香ばしい香りに包まれた。


 室内は柔らかな光に満ちていた。明り取りの窓から差し込む太陽光に室内を漂う埃が反射して、キラキラとした光を放っている。


 その中に、一人の老人がいた。崩れかかった書物の山に囲まれて、テーブルに突っ伏す格好で、むしゃぶりつくようにパンを頬張っている。彼の前にはパンのほかにも、皿に盛られたイチジクやナツメヤシの実、焼いた鶏肉などがあった。


 彼の身なりは高位の神官が身につけるものであったが、豹の毛皮で作られたショールは年老いたようにヨレており、上質な亜麻布で織られた衣服も裾が擦れていた。そして、彼の纏う衣服以上に、彼自身が劣悪な身体をしていた。骨と皮だけの極限までやせ細った身体に、眼光だけが異様に力強く鋭い。何やらブツブツと独り言を呟きながらパンを頬張るその口からは、パンのカスがポロポロと落ちて床やテーブルを汚していた。


 補佐役のイエンウィアは、その異様な光景を前にしても眉ひとつ動かさなかった。これが彼にとっての日常だからである。


「フイ最高司祭、カエムワセト殿下が――」


 イエンウィアがカエムワセトの来訪を最後まで伝える前に、パンを頬張っている老人、つまりフイ最高司祭その人が片手を上げて、それを制した。


「ちと黙っとれ。久方ぶりの食事を邪魔するでないわ。……パンはエジプト人の糧であるがしかし砂が混じっておるのはいかんイチジクは命の雫じゃ喉を潤す今年の供物は麦が多いカエムワセトの出勤は一月後の予定である……」


 最初の二言以降は独り言なのか、声が小さく早口で聞き取りづらかった。


 突如、フイが咽始めた。パンを詰まらせたのだと気付いたイエンウィアが、急いでカップにワインを注ぎ、フイに手渡した。フイは口角から赤い液体を零しながら、一気に飲み干した。


「また痩せたんじゃねえか?」


 アーデスがカエムワセトに耳打ちした。


 あいも変わらず瞑想明けの老齢司祭は盛大な暴飲暴食ぶりだが、以前に会った時よりも骸骨感が増している気がする。


「今度は何日お籠りに?」


 カエムワセトが気遣わしげに訊ねた。


「三日じゃ」


「四日ですよ」


 フイ直々の回答を、間髪置かずイエンウィアが訂正した。


「なんで生きてんだよ」


 アーデスは愕然とした。


 エジプトの夏は乾燥し、日中は暑さのあまり蚊も飛ばない過酷な環境で、いくら屋内とはいえ飲まず食わずで居るなど、自殺に等しい行為である。しかもフイはガリガリに痩せた老人である。今生きている事は、奇跡を通り越してもはや奇怪であった。


「今回は、流石に私もフイ最高司祭の身を案じました。もしかすると高齢の方が時折そうなるように、解放された本能で超人的な行動力と生体活動を発揮されているのかもしれませんが」


「ワシはまだボケとらんわ、たわけ!」


 ふざけた事を至極真面目に回りくどく喋り出した補佐役を、フイはパンの欠片を飛ばしながら叱りつけた。イエンウィアは身体を軽く反らせ、歯の残り少ない口から飛んでくる飛沫を避けた。


「フイ最高司祭。お食事中に誠に申し訳ないのですが、急ぎの用があり参りました。まずはこの子を紹介させて頂けないでしょうか」


 これ以上待っていても埒が明かないと判断したカエムワセトは、多少の叱責を覚悟してハワラを前に出した。


 フイは半ば眼球が飛び出た様なギョロリとした目でハワラを見ると、更に大きく開眼して「蛇がおる」と口をすぼめた。


 その言葉に、ハワラが身を強張らせる。


「黒い大蛇じゃナイルの底に縛られし影じゃ……」


 小声でまくしたてながら、その細い両腕で身体を支え立ち上がると、フイは丸まった背骨とがに股で、突進するようにハワラに近寄った。両手でハワラの頭を乱暴に掴むと、自分の顔にぐいと引き寄せる。


 ハワラが「ひっ」と小さな悲鳴を上げた。フイは構わず、冷や汗をだらだら流す少年の瞳の奥を、じっと見つめた。見つめている間、フイの独り言は止んでいた。


 やがてフイは瞼を伏せ、「魔物の所業は残酷よの」と呟きを残すと、またテーブルに戻った。


「……死んだ子供の魂をもてあそぶ魔物に犯されし哀れな魂は助けを求めるものを間違えなかったが救いは成し遂げられるのかあまりにも酷であるオシリスの救いもアヌビスの導きも期待できんアペピが動き出すもうすぐ聖牛の葬儀が……」


 ブツブツ呟きながら新しいパンを掴み、再びガツガツと食べ始める。


「よく耐えた、ハワラ」


 カエムワセトがハワラの耳元で健闘を称えた。


 フイの勢いと強烈な顔面の恐怖にひたすら耐えていたハワラは、その場にへなへなと座り込んだ。




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