第六章 異端の司祭は蜂蜜パンの香り
第24話 プタハ大神殿
プタハ大神殿はメンフィスの中央に位置する、鍛冶や職人の神プタハを祀った神殿である。エジプトでは三本の指に入る規模を誇った。
四方を分厚い壁に囲まれたこの神殿には、西・東・南に巨大なモニュメントを誇る塔門が存在する。
カエムワセトはアーデスとリラとハワラの三名を連れて、ラムセス二世の立像が並ぶ西側の門から入場した。
門番の一人が、神殿に務める第四王子の姿を見つけるなり駆け寄り深くお辞儀した。
カエムワセトも右手を胸に当てて会釈を返すと、遅れてライラと少年二人が来るので、自分達の元に通してくれるよう頼んだ。
「承知しました」
快諾した門番に、カエムワセトは続いて、上司であるフイ最高司祭との面会の可否を問うた。
その質問に門番は口ごもると、「フイ最高司祭殿は、数日前からお籠りだとか」と、申し訳なさそうに不可を告げた。
「またかよ」
アーデスは、首を掻いた。
「そのうち死んじまうんじゃねえか?」
面白がる口ぶりではないので、本当に心配しているらしい。
神官の役割は宗教家のように神がかったものではなく、その多くはファラオに代わって神殿の神事を執り行う職員である。拝謁の間に来た庶民に神のお告げとして預言を渡す事もあるが、大抵の仕事は神の像を清め供物をささげ、神殿の維持または備品を管理し、葬儀に携わるなど、事務的な内容が殆どであった。
しかし、フイ最高司祭は希に見る神がかった神官であり、時々「神の声が聞こえる」と言ってはトランス状態に陥り、数日間飲まず食わすで礼拝堂に籠るのである。
今回は運悪く、そのタイミングに来てしまったらしい。
「ジジイが礼拝堂なら俺らは入れねえぞ」
基本的に庶民が自由に出入りできるのは、前庭までである。内部は神官以上の者もしくは特別に許可された者しか入場を許されていなかった。しかも、今も彼が瞑想中であるなら、会話すら不可能である。
「大丈夫。もう出てるよ」
不意に、リラが言った。何かの匂いを嗅ぎ分けているように顎を上げ、目を細めている。
門番は『え、そうなの?』という顔をしたが、カエムワセトもアーデスも、リラが言うならそうなのだろう、と疑わなかった。
「ところでハワラ、神殿は大丈夫か?」
自分のすぐ後ろにいるハワラを、カエムワセトは顧みた。魔物に無理やり生き返らされた身体では、神殿の空気は辛いのではないかと心配したが、ハワラは意外にも「少し体が重いけど、入れそうだ」と、笑顔を返した。
「プタハ神は闇を好む神様だから。ハワラを受け入れやすいのかもしれないね」
リラの言葉に、ハワラが「だったらいいな」と顔をほころばせた。カエムワセトに全て打ち明け気持ちが楽になった事で、ハワラの表情は随分明るくなっていた。
「早く行こうぜ。ジジイは礼拝堂から出たら毎回、暴飲暴食と沐浴してから籠ってた日数分爆睡するだろ」
フイ最高司祭の習慣を知っているアーデスは、全員を急かした。沐浴に付き合うのも、爆睡から起こしてどつかれるのも御免である。狙うは最初の食事時しかない。
「お待ちを、アーデス殿。次にいらっしゃった時には髭を剃らせるようにとフイ司祭からのご命令でして」
「自分の眉毛でも剃っとけって言ってやるよ」
アーデスはフイからの言いつけどおり剃刀を取りに行こうとした門番を引き戻し、強引に入場した。
目指すはフイの執務室である。
ちなみに、フイは毎朝全身の体毛を剃り落とす徹底ぶりであった。
★
「おや、こんな時期に珍しい」
フイの執務室の前で、ワイン壺を持った若い神官と出会った。カエムワセトにトキの情報をもたらした人物である。すっきりとした長身に軸が一本通ったような美しい立位姿勢の彼は、品の良い笑顔で同僚の王子とその近臣を迎えた。
「イエンウィア。会えてよかった。フイ最高司祭はいらっしゃるだろうか」
常勤の神官であり、フイの補佐役でもあるイエンウィアは、「勿論おられるよ」と頷くと、子供の頭ほどの大きさのワイン壺を少し持ち上げて見せた。
「丁度、ワインを頼まれたところだ」
「断食明けにワインとは、相変わらず腹の丈夫なジジ……ゴホン。お方だな」
流石に補佐役の前でジジイ呼ばわりするわけにもいかず、アーデスは咳払いで訂正した。
何とか沐浴前に間に合ったようである。カエムワセト一行は安堵の息をついて、フイとの面会をイエンウィアに申し出た。
「食事中でよければ、どうぞ」
イエンウィアは快諾し、執務室の扉を開けた。
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