第20話 ハワラが交わした契約

 はい、アペピです。と、ハワラは涙を拭いながら頷いた。


「あいつは、僕にそう名乗りました」


 ハワラが病死したのは二週間前。ミイラ処置まで施されたというのに、ハワラの母は何も食べず殆ど眠らず、泣いて暮らすばかりであった。近所の人間が飯を運び、ハワラの弟妹を家に連れ帰り世話をしなければならないほどに、生活は荒れていたという。

 ハワラは日に日に痩せていく母親を放っておけず、冥界の導き役であるアヌビス神の眷族が迎えに来ても、旅立てなかった。しかし実体を持たないハワラは何をできるでもなく、ただ家の周りを彷徨う日々が続いていた。するとある日、突然闇の中に落ちた。気付けば目の前に小山の如く大きなとぐろを巻いた大蛇がいた。


「アペピは僕を一時的に生き返らせてくれました。そして、完全に蘇りたければ自分に協力しろ、と交換条件を持ち出して来たんです。僕は……やります、と言いました」


 ハワラは何度もごめんなさい、と詫びながら再び大粒の涙をこぼした。


 寝台にリラと座っているライラは、そのすらりとした脚を組んで、頬杖をついた。目を三角にすると、ハワラを「馬鹿ね」と罵った。


「一時でも生き返らせてくれたんなら、さっさと母親のとこに行って、喝を入れるなり励ますなりしてやりゃよかったのに」


「できなかったんだよ! アペピが、生前親しかった者には絶対に近づくなって禁止したんだ。もしその条件を破った事が知れたら、僕は奴に喰われてしまうんです!」


 それを聞いたライラは、腕を組んで大きく舌打ちした。


「化け物のクセにケチケチしてるわね。しみったれ!」


 主人の前であるにも関わらず、ライラはいつも以上に口が悪くなっていた。明らかに恐いのを我慢して虚勢を張っているライラに、アーデスが顔をしかめた。


「ちょっとお前黙ってろ。怖いんなら隅で座ってていいから」


 そう言って、ジェトとカカル付近の壁の端を指差す。


 しかし、ライラはそれに応じず、その豊満な胸を張って鼻息を荒くした。


「別に怖くないわよ。爬虫類の化け物に、死人でしょ。受けてたってやろうじゃないの!」


 大口をたたきながら震えている手足は、武者震いではないはずである。


 カエムワセトは眉間に手を当てて俯き、アーデスは苦虫をつぶしたような顔で頭をかいた。リラだけが、いつもの捕え所のない笑顔でライラを眺めている。


 牢屋でライラに半殺しにされかけたカカルは、両目に涙を溜めてジェトの袖を掴んで身を寄せた。


「アニキぃ。この姉ちゃん、やっぱどっかイカれちゃってるんじゃないですかぁ?」


「目、合わせるな。今度こそ殺されるぞ」


 カカルの失言を聞き逃さなかったライラが物凄い形相で睨んできたので、ジェトは必死で視線を逸らせた。


「今更信じてもらえないかもしれないけど、僕は殿下に全部話すつもりだったんです。アペピが、殿下はトトの書を手に入れられた程の魔力の持ち主だと言っていたので。だから全部話して、助けを求めるつもりでした」


 しかし、メンフィスについた途端イシスネフェルトとメルエンプタハのいる王宮へ行く事になり、急展開に慄いたハワラは話す機会を次々と逃してしまったのである。


「情報漏洩元がよりにもよってアペピかよ」


 アーデスが天井を仰いで情けない声を出した。


「本当にごめんなさい。いざ話すとなると、とても怖くて……。本当に、すみませんでした」


 ハワラは最後、消え入るような声で謝罪の言葉を紡ぎ、俯きながらカエムワセトからの返事を待った。


 カエムワセトは椅子の背もたれに体を預け、口元に手を添えて暫く考え込んでいたが、やがてぽつりと言った。


「真実を話す気になったのは、罪の意識にさいなまれたから? それとも、魂の死を恐れてか? 告白を躊躇っていた昨日の内にアペピが行動を起こすとは思わなかった?」


 カエムワセトの問いかけは、まるで独り言であった。だがその声色に明らかな憤りを感じ取ったハワラは、滑り落ちるように椅子を降りて土下座した。


「僕の事は斬り捨てて下さって構いません。ですがどうか、家族だけは許して下さい!」


 メンフィスに到着してからハワラが急に大人しくなった事は、カエムワセトも気付いていた。いつ再びアペピが現れるかもしれないという恐怖心もあったのだろうと推測する。


 カエムワセトは目を閉じると一度息を大きく吐いて、再びゆっくり開眼した。そして、ハワラに面を上げるよう声をかけた。


 ハワラは両手を床につけて、まっすぐにカエムワセトを見た。怯えてはいるが、視線にも身体にも無駄な動きは見られない。何より、正体が露呈した今、これ以上の虚言は無意味であった。

 今度こそハワラが真実を語っている確証を得たカエムワセトは、幾分態度を軟化させた。


「私の方こそすまなかった。君が生者でないことは、君の肩に手を触れた時に感じていたんだ。ジレンマに陥っているのも知りながら、泳がせておいた。お互い様だよ」


 その言葉を聞いた途端、ハワラの全身から余分な力が抜けた。カエムワセトが例え形だけでもハワラの謝罪を受けて入れた事と、自分の肩の荷が一部降ろせた事に安堵したのである。


 一方、カエムワセトは再び難しい顔で考え込んだ。



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