第五章 混沌の魔物
第17話 メンフィスの朝
翌日。朝陽が小さな格子窓から差し込んできた。夜明け前から聞こえはじめた鳥の声は、今では一層賑やかさを増し、目を覚まして仕事にとりかかる人々の気配もする。
昨夜メジャイに捕えられた小さい方の少年は、格子窓から差し込む太陽光に眩しそうにクマの浮いた目を細めると、ゴシゴシと乱暴に擦った。そして、牢屋の冷たい土床に四肢を投げ出して寝ころがった。
「あ~朝が来たっス~。ホントもう最悪っス~。どうすんスかジェトのアニキ~。オイラ達殺されちゃうっスよぉ」
細い両手足を駄々っ子のようにバタつかせた彼は、窓際で頬杖をついて座っているジェトに話しかけた。
ジェトはぼんやりと壁を眺めながら、「そうかもな」と一言返すだけだった。
処刑を目前にしても落ち着いているジェトに、少年は口をとがらせて恨みがましい眼差しを向けた。
「もうっ。アニキがあのまま黙ってたら生きられたかもしれないのに。オイラまだ死にたくないっスよ!」
「あのなあ、カカル」
頬杖を外したジェトが、呆れ顔でやっと弟分を見た。
「死にたくないならなんで俺についてきたんだよ。あのまま団に居りゃあよかったじゃねえか」
ジェトは最近、盗賊団を逃げるように抜けてきた。そこに、カカルもおまけでくっ付いてきたのである。ジェトは是が非でも一緒に行くと言って譲らない弟分に、団を抜けると『裏切り者』とみなされ、見つかったら殺させるかもしれない事。運よく見つからず逃げおおせたとしても、普通の生活に戻る事は難しく結局はメジャイに捕まり処刑されるかもしれない事を再三言って聞かせた。それでもいいと、ついてきたのはカカルである。
「そりゃあ、まあ……」
痛いところを突かれたカカルは返答に詰まったが、むくりと起き上がると泣きそうな声で言った。
「でも、前のお頭が言ってたんスよ。生きてるうちに少しくらいは善い事しとけって。あのままあそこにいても、おいら善い事なんか出来る気しないっス」
カカルは悲しげに肩を落とした。
先代の頭目を話題に持ち出され、ジェトの表情にも憂いが帯びた。弟分に気付かれぬよう、ぷいとそっぽを向く。
「んじゃあ仕方ねえな。腹くくれ」
わざとそっけなく言った。
「もうっ! それが嫌なのぉぉぉ~」
元の駄々っ子に戻ったカカルは、叫びながら狭い牢屋の中を左に右に、ゴロゴロと転がった。
「あ~あ! オイラ絶対『○○の災厄』とか『盗人○○』とか不名誉な名前刻まれて埋められるンス~! 来世(あの世)では石投げられて暮らすことになるんス~!」
あまりに転がり過ぎて砂埃が立ち、牢の外にまで舞い上がった。
「うるさいぞお前ら! 何やっとるんだ!」
牢屋の入り口を見張っていた番兵が、顔だけ覗かせ怒鳴りつけてきた。
★
ジェトとカカルが番兵にどやされている頃、カエムワセトはヤグルマギクの花束を手に、王宮の傍を流れる川に来ていた。
日が昇って間もない川べりは、水面を滑る風が涼しい空気を運び、パピルスの葉や葦を揺らしている。
カエムワセトは水辺ギリギリまで歩みを進めた。人の気配に驚いた水鳥が、葦の草村から水滴を散らして飛び去った。
カエムワセトは、ゆっくりと辺りを見渡した。
「ここか。現場は」
後ろから、アーデスが声をかけた。
カエムワセトは振り返る事無く、「うん」と短く答えた。
「十年以上経っても、あの頃のままだよ」
腰をかがめ、水面に花をたむける。
ヤグルマギクの花束は、初めはまとまってゆっくり流されていたが、やがて散り散りになって運ばれていった。
カエムワセトとアーデスは黙ってヤグルマギクを見送った。
やがてカエムワセトが、「アーデス」と腹心の名を呼んだ。アーデスは「ん?」と返す。
「先日、兄上が仰っていたんだ。この世の中、本当に生き残った方が幸せなのだろうか、と」
カエムワセトとアメンヘルケプシェフは、ラムセス二世と謁見室で会う前の僅かな時間、雑談を交わしていた。その時に、隣国のリビアやアッシリアの脅威が増している状況を打ち明けたアメンヘルケプシェフがぽつりと漏らしたのである。イアル野が戦争も飢饉も疫病も存在しない楽園ならば、この世は何なのだろうか、と。災害や戦争を生き残る事は真の幸福なのだろうか、と。
それを聞いたアーデスは、「ははっ」と哀愁を帯びた声で笑った。
「皇太子殿は公務にお悩みかい」
皇太子の人となりもある程度把握しているアーデスは、主人の異母兄である皇太子アメンヘルケプシェフの悩みの種を、見事言い当てた。仕事の相方があの親父では、病んでしまってもしょうがなかろう、とも心中で付け加える。
アメンヘルケプシェフは外見こそ父親のラムセス二世瓜二つだが、中身は正反対の真面目な常識人である。用心深くもある。故に、アメンヘルケプシェフは常日頃から己の言動に厳選に厳選を重ねている。そんな男が愚痴をこぼしたのだから、相当参っているのであろう。
だが、今のカエムワセトは兄の苦悩そのものではなく、他の事柄に思うところがある様子であった。ぼんやりと水面を眺めるその背中からは、憂いと疑念が漂っている。
アーデスはそんな主人の背中を黙って見守った。
「生きてこその幸福は確かに存在すると私は思うよ。けれど、ただ考えるんだ。生者だけが幸せでは、不公平だと」
憂いの理由を察したアーデスは、「やれやれ」と頭を掻いた。
ここは、十年ほど前に三男のプレヒルウォンメフが溺死した場所である。
「辛いんならどうしてわざわざ来るかねえ……」
自分の身代わりのように川底に沈んだ異母兄を思い出し、心を痛めるのは仕方のないことであろう。だが、わざわざ水死現場まで足を運び、死者のあの世での生活を心配する必要もなかろう、とアーデスは思う。
心の傷が癒えていないのなら、現場には行かず墓に花を手向けるという方法もあるのだ。
「弔いのため。そして、自らを戒め、気持ちを奮い立たせるため」
アーデスの疑問に答えたカエムワセトの声は、思いのほか力強かった。
「私は亡くなられた兄上にはなれない。私にできることは、救い上げてもらったこの命と人生を、救い上げてくれた人の分まで精一杯この世に捧げる努力をするだけだ。それを再度心に刻み付けるには、ここはとても適した場所なんだよ」
なるほど、とアーデスは納得した。気真面目なこの王子は、使命感で気合を入れるつもりなのだろう。しかしその背中はどうしても、無理をしているように見えた。
アーデスは、さてこれはどうしたものか、と再び頭をがしがしと掻いた。悩むと頭を掻くのはアーデスの癖である。
腹心の困惑を感じ取ったカエムワセトは、振り向いて笑顔を作った。
「すまない、アーデス。つまらないことを話してしまった。忘れてくれ」
そう言って、宮に戻ろうと川岸を登る。
「つまらん話だが、ちょっと聞け」
すれ違いかけたカエムワセトを、アーデスが片手で押し留めた。
「俺は知ってのとおり傭兵だ。戦場で何百人と殺してきた。俺の盾になって死んだ奴もいた。だが俺は、失った戦友や殺した奴らの人生まで背負いこもうとは思わん。んなことしてたら身がもたねえし、結局、俺の一生は、俺に与えられた一人分だけだからだ。ほんで、人生の途中で不幸のどん底に落ちようが、死者に対して不公平だと文句つけるようなナンセンスな真似をするつもりもねえ」
アーデスがカエムワセトに説教じみた話をするのは、随分と久しぶりであった。毎日夜遅くまで神殿で書物を読みふけり、トトの書を手にしようと躍起になっていたカエムワセトに、生き急ぎ過ぎている、と忠告した時以来である。
「命を賭して守ってくれた奴には『ありがとう』。命を奪った奴には『すまんかった』。冷たいと思えるかもしれんが、それくらいにしとけ。でなきゃ特にお前みたいなクソ真面目な人間は、自分の人生すらまともに全うできなくなっちまうぞ」
確かあの時は、「子供らしく、もっと外で遊べ」と言ったんだったかな。そう思いだしながら、アーデスはカエムワセトの肩をぽん、と叩いた。
「今のお前には必要な考え方だと思うぜ。覚えといて損はねえ」
時に周りが呆れるほどに真っ直ぐな生き方しかまだ知らない若者は、アーデスが昔に忠告した時と同じく、澄んだ眼差しを向けて来た。だが深い色の瞳の中には、年齢を重ねた分だけの頑なさも存在していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます