第16話 母と弟

 番兵から息子の来訪を聞かされたイシスネフェルトは、玄関ホールでカエムワセト一行を出迎えた。彼女の後ろには、弟である第十三王子メルエンプタハが乳母に抱かれている。


「まさかこんなに早く会えるなんて。一体どうなさったの?」


 イシスネフェルトはその柔らかな手で、会うたびに大人びてゆく息子の頬を両手で包んだ。


 カエムワセトはイシスネフェルトに、初見であるハワラとリラを友人として紹介し、ハワラの母親の葬儀に呼ばれて来たと伝えた。


 イシスネフェルトはハワラの境遇を聞くと、柔らかな弧を描く眉尻を下げて息子の友人の不幸を悼んだ。


「お母様もさぞ無念であられるでしょう。幼い子を置いて先立つほど、親にとって苦しい事はありませんもの」


 膝を折ってハワラの目線に合わせたイシスネフェルトは、ハワラの頬に指を添えると労わるように微笑んだ。


 ハワラは震える声で「すみません」と言うと、イシスネフェルトの手から逃げるように一歩後ずさった。


 ハワラが恐縮しているのだと判断したイシスネフェルトは、「いいのよ」と優しい微笑みを深めて立ち上がり、次にリラと挨拶を交わしはじめた。


 イシスネフェルトはネフェルタリほどの聡明さは持ち合わせていないが、慈愛に溢れた女神のような女だとラムセス二世は褒めそやす。

 戦友のネフェルタリ、慈愛のイシスネフェルト、という二極化した二人はほぼ同時期にラムセス二世の妻となった後宮の大御所である。今は訳あってイシスネフェルトはメンフィスに滞在しているが、いずれまたぺル・ラムセスに戻る予定であった。 


 余談ではあるが、彼女の長女、ビントアナトもラムセス二世に嫁いでいる。

 自他共に認めるファザコンのビントアナトは、物心ついた頃から「お父様のように美しく、お父様のように勇猛果敢で、お父様のように大胆不敵で、お父様のように懐の深い男性としか結婚しません」と豪語していたのだが、本当にお父様と結婚してしまった。

 ぺル・ラムセスで側室の一人におさまった彼女は、実娘の称号を傘にきて、毎日飛び跳ねるようにラムセス二世を追いかけまわしている。


 イシスネフェルトはライラとアーデスに労いの言葉をかけ終えると、今年一歳になるメルエンプタハをカエムワセトの腕に抱かせた。


「ほら、お兄様よ。本当に、早く一緒に暮らせるようになりたいわね」


 カエムワセトはしきりに顔に手を伸ばしてくる弟をあやしながら、


「もうしばらく御辛抱を。父上も、好機が来たら呼び戻すと言っております」


 と、不満げに口をすぼめるイシスネフェルトを宥めた。


 イシスネフェルトとメルエンプタハがメンフィスの王宮に滞在しているのは、メルエンプタハが生まれた一年ほど前からである。

 メルエンプタハが産声を上げた日、占星術師が


「メルエンプタハ様は希に見る幸運の持ち主。このお方はご兄弟の誰よりも強い定めと運をお持ちでございます」


 と、軽率にも公言したものだから、宮は戦々恐々となった。なにせ、メルエンプタハは第十三王子である。占星術師の言葉は、メルエンプタハが次期ファラオに即位するであろうと予言したに等しかった。


 基本的に皇太子は年功序列のエジプトで、十三番目が王位継承されるには十二人の兄達の死が前提である。生母や王子たちが、不安を抱かない訳がなかった。動じなかったのは唯一ネフェルタリだけである。結果、後宮ではメルエンプタハ暗殺の気配までが漂い始め、憤慨したラムセス二世は占星術師の首を斬り、イシスネフェルトとメルエンプタハをメンフィスへ逃がしたのである。


「ここの暮らしはのんびりとしていて楽しいけれど、やっぱり寂しいわ。お忙しいだろうけれど、時々会いに来てね。カエムワセト」


「のんびりなさっているのは奥方様だけにございます。わたくしは毎日、身も心も擦り減ってゆくばかり」


 イシスネフェルトの言葉を聞いた途端、眉間に皺を寄せた乳母が会話に割って入って来た。五十の半ばにさしかかろうというこのヌビア(エジプトの南。アフリカ)出身の女性は、イシスネフェルトの子供達の乳母を務めていた。自分が乳母を務めるのはカエムワセトで最後にしてくれ、と数年前にイシスネフェルトに頼んでいたのを覚えている。しかし、不幸にも急な転居が決まり、新しい乳母を見つける時間が無かった。そろそろ関節痛を患い始めたこの乳母は、乳母仲間もいないこの広い王宮で、運動器の発達が早く好奇心旺盛なメルエンプタハに毎日振り回されているとのことであった。


 寝返りを習得してから度々、突如乳母の視界から消えて驚かせていたメルエンプタハであったが、最近は独歩を習得したので余計に目が離せないのだという。

 最後に会った時に比べいくらかやつれた様子の乳母からの育児報告は、ボヤキに近いものがあった。


「つれない事言わないで。退職金は弾むし、老後はゆっくりさせてあげるから。ね?」


「老後の安寧も退職金も、わたくしがイアル野(天国)に旅立つ前にお願い致します」


 猫なで声で機嫌を取ろうとしたイシスネフェルトに、乳母は口を真一文字に結んで膨れた。


 カエムワセトは、一日でも早くぺル・ラムセスに呼び戻してもらえるようラムセス二世に口添えしておくと約束した。その約束は、乳母の眉間と口元にくっきり刻まれた皺を幾分浅くする事に成功した。


「まずは湯で汗を流していらっしゃい。夕食は皆で頂きましょう」


 カエムワセトからメルエンプタハを受け取ったイシスネフェルトは、女官に沐浴と人数分の部屋の用意に加え夕食の準備を指示すると、乳母と共に奥に消えた。


 イシスネフェルトを見送ったカエムワセトは、ハワラに振り返った。王宮に到着してから、更に顔色が優れないように見える。


「ハワラ、大丈夫か?」


 身体を固くして俯いていたハワラは、カエムワセトに呼びかけられると飛び上がり、「はい大丈夫です!」と無駄に大きな返事を返した。


「馬と船の旅は体に堪えたろ。今日は王宮で休んで、明日君の家へ行こう」


「い、家……ですか」


 ハワラはと狼狽すると、心底困った顔で俯いた。


 アーデスとライラは二人の後方で、警戒した眼差しをハワラに向けていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る