第13話 出立の朝
用を終え息子の部屋を後にしたラムセス二世は、廊下で向こうから歩いてくる女官と痩せた子供の姿に気付いた。
オイルランプのぼんやりとした灯りに照らされた二人の人間は、ファラオの姿を見つけると素早い動きで廊下の端に寄った。
まず女官が頭を下げ、続けてランプを持っていない方の手で軽く子供の頭を押して礼を促す。子供は促されるまま頭を下げた。
ラムセス二世は口元に狂暴な笑みを作ると、よどみない足取りで二人の前まで歩みを進めた。立ち止まると、目だけで子供を見下ろし、フンと笑った。そしてその大きな手で子供の頭を掴むと、ぐしゃりと乱暴にひと撫でする。そこからは、何も言わず去って行った。
頭を撫でられた痩せた子供――ハワラは、冷や汗をかいて震えた。
★
ハワラは二日間、王宮でこんこんと眠った。目覚めては枕元に置かれているパンとスープで腹を満たし、用を足し、また眠る。それを繰り返した。
二日目の夕暮れ、ハワラは眠り過ぎてぼやけた頭を抱えながら部屋を出た。ハワラを見つけた女中が、カエムワセトを呼びに行ってくれた。
そして三日目の早朝。月の形がはっきりと浮かぶ白みがかった空の下。厩舎前の広場で、ハワラをメンフィスに送る一行は、厩舎番の少年から馬を受け取っていた。
ラムセス二世は馬好きで、王宮に五百頭近い馬を収納できる巨大な厩舎を作っていた。だが当時、馬はエジプトに持ち込まれてから歴史が浅く、その用途はほとんど荷車やチャリオットと呼ばれる戦闘用馬車を引く牽引用だったのである。乗馬の文化はまだ浸透していなかった。辛うじて、貴族の息子達だけが乗馬の訓練を受けた程度である。平民にはむしろロバの方が馴染み深かった。故に馬具は乏しく、鞍は毛布を被せる程度で、あぶみもない。
カエムワセトは馬の快速性を好み旅の移動手段として愛用していたが、これはまだ珍しい例である。
ハワラも馬には馴染みがなく、ロバに乗るのがやっとだった。そんな状況で、自分の身長を余裕で追い抜く大きな動物を目の前に引っ張ってこられ、これに乗って移動しろと言われたのである。ハワラは、目が回りそうなほど首を振って拒否した。
仕方がないので、ハワラはアーデスが一緒に乗せることで落着する。
ハワラを引っ張り上げて自分の前に座らせたアーデスは、緊張でカチコチになっている小さな肩を軽く叩いた。
「安心しろ。落ちても砂の上だ。大して痛かねえさ」
半分はからかって楽しんでいる言葉がけだったが、ハワラは大真面目に「はい」と返事をすると、必死の形相で馬の首筋にしがみついた。馬が嫌がって首を振った。ハワラは驚いて、少女のような悲鳴を上げた。
アーデスは笑って、たてがみを握るようアドバイスした。馬のたてがみの付け根は脂肪が多く、引っ張っても大して痛くないからだと説明する。
ハワラは冷や汗をかいて、まごつきながらも、身体を起こして手近な一房を握った。
ハワラが馬上で落ち着いた事を確認したカエムワセトは、途中からは船を使うから安心するようハワラに言った。ハワラはぎこちない笑顔で頷いた。
「リラ。あなたも私の所に――あら?」
アーデスがハワラを乗せたように、ライラもリラを前に乗せてやろうと馬の上から金色の髪を探していた。しかし、リラは厩舎の少年の助けを借りる事無く実に身軽な所作で馬にまたがると、手綱を操る事もなく、馬上に居るカエムワセトに馬を寄せていったのである。
「ねえ、今あの子、馬に何か喋ってた?」
ライラは朝の挨拶をにこやかに交わしている二人を茫然と眺めながら、馬に乗った直後、馬の耳元で口を動かしていたリラの奇妙な行動をアーデスに確かめた。
「あー……『私を落とさずメンフィスまで走ってくれたら、飼葉お腹いっぱいあげるよ』とかじゃねえの?」
リラの声色と口調を真似て言ったアーデスに、ライラは至極嫌そうに顔をしかめた。
「似てない上に気持ち悪いから止めてよ。だいたい、人が馬とそんなコミュニケーション取れるわけないじゃないの」
アーデスは「さようでございますね」と乾いた笑いを洩らした。
「では、出発しようか。馬に不慣れな者もいるから、急がずいこう」
仲間に振り向いて言ったカエムワセトのその全身は、城壁の向こうからゆっくりと昇ってきた朝陽に照らされていた。
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