第12話 カデシュの父

 リラはハワラを嵐と呼んだ。


 明らかに罠を匂わせる虚言に乗ったが、本当にこれでよかったのかと、カエムワセトは旅支度を整えながら考えていた。


 十三の頃から、カエムワセトの生活は旅だらけであった。今では考え事をしながらでも目的地までのルートと移動手段を思索し、必要な物品を揃えることができる。


 路銀が底を尽きかけていた事を思い出し、いつもよりも多めに補充した。今度はリラとハワラを含めた五人分が必要である。しかも、今回はいつも以上に何が起こるか分らない。

 本当に、ハワラを自宅まで送り届けて母親の葬儀を済ませ、帰って来るだけであればこれほど袋を重くする必要はないのである。だが、そう上手く事は運ばないだろうと、カエムワセトは予想していた。


 ハワラが体力を取り戻すまでには、二、三日を要すであろう。それまでにもう一度急ぎの用は無いか書簡を確認しておこうと、机に向かった。その時、後方で扉が開く気配を感じた。


「よお息子」


 振り向くと、ラムセス二世が立っていた。腕を組んでいる彼は、両手に何も持っていない。


「灯りもなしにいらしたのですか?」


 月明かりも満足に届かない真っ暗な廊下を、よく無事に歩いて来れたものだと呆れる息子を、ラムセス二世はせせら笑った。


「そんなもんに頼らずとも、暗闇などすぐ慣れるわ。軟弱者」


 己の超人ぶりを普通とみなし、常人を軟弱者呼ばわりする。これでは父王の傍で政務を学ぶアメンヘルケプシェフもさぞかし辛かろう。カエムワセトは、日々多くの時間をラムセス二世と共に過ごす長兄の苦労を思ってため息をついた。


 カエムワセトが訪問の理由を訊く前に、ラムセス二世は息子がまとめていた旅荷物を片手で持ち上げて揺らしてみせた。


「さて今度はどこへ行く気だ? 仕事ではなかろう」


 カエムワセトはラムセス二世の地獄耳ぶりに驚いた。さっそくどこで耳にしてきたのか。だが、すぐに考えを改めた。もしかすると、ふと働いた直感に従って来たのかもしれない。ラムセス二世というのは、そういう男である。


「メンフィスに。次の調査はサッカラですので、少し早めに発って母上と弟のご機嫌を伺おうかと」


「そりゃ殊勝なこった。イシスネフェルトによろしくな――って嘘つきやがれ未熟もんが」


 出立前の挨拶用に用意していた息子の嘘をあっさり見破ったラムセス二世は、寝台に旅荷物を放り投げると、ゆっくりとした足取りでカエムワセトに近づいた。

 窓から差し込む月明かりにファラオの尊顔が照らされた。そこにあった表情は、そのふざけた声色と口調からは想像できないほど知性的で落ち着いていた。


「出陣前の兵士みたいな面しやがって」


 ファラオは薄く笑った。


 カエムワセトはラムセス二世の嗅覚の良さに驚いた。この男が一体どこまで勘づいているのか確かめたくなったが、「なんのこっちゃ」とはぐらかされそうな気もして、やめた。なにより、温もりすら感じた目の前の男のその声色は、普段彼が公で発するものではなく、それが余計に、普段の駆け引きだらけのやり取りを躊躇わせた。あえて言うならば、父親が息子に向けるものだったのである。


 王と王子という特殊な関係と、あまり顔を合わせない生活環境のおかげで、カエムワセトがこの男の、誠の父親の部分に触れる機会は、めったにない。物心ついてからは初めてかもしれなかった。


 ラムセス二世は両手でカエムワセトの側頭部を包み込むと、力を入れ、小さく揺すった。


「しっかりしろ。大将が怯えてどうすんだ」


 低く力強い声で叱咤した。


 ふと、古い戦争の記憶がカエムワセトの脳裏に蘇った。ファラオを象徴する金のウアジェト(コブラ)の冠を被り、剣と弓を手にチャリオット(戦闘用馬車) に乗りこむ父の姿。

 強大な力を宿した広い背中と冠の下から覗く赤い毛髪は闘いの神セトを連想させた。

 アメン神の名を高らかに叫び、数多の戦士に戦地へと進む勇気を与える男の姿は神よりも偉大に見えた。ただ、横に引かれた口角には恐れを辛うじて上回る攻撃性が垣間見え、それに関してだけは唯一人間らしく感じられた。


 カエムワセトが所属していたプタハ師団が前戦のカデシュに到着した時、そこは既に惨状であった。敵味方双方の血と死体が大地を埋める中。そこに佇むラムセス二世の背中は深く傷付いており、神ではなくただの人に見えた。

 結果、一万を超える兵を失い、凱旋とは言えない痛み分けの戦いを終えて、エジプト軍は帰還した。


 戦闘直後は酷く疲れて見えた広い背中。それは、城門を潜る時には元の力強いものに戻っていた。


 カエムワセトは当時を思い出しながら考える。ヒッタイト勢との戦いを目前に、今のように父を叱咤激励した者はいたのだろうか。ぺル・ラムセスの門前までに、背中に偉大さを取り戻す力となった者はいたのだろうか。


 いなかったかもしれない。


 もしかすると父王は、己自身で己の頬を張って闘争心を振り絞り、己の心に言い聞かせ続けることで帰国前にようやく胸を張れたのかもしれない。今のような叱咤激励をファラオであるこの男に贈れる者はそう多くないからである。


「父上はやはり大きな方ですね」


 息子が発した心からの讃辞に、ラムセス二世は不敵に笑うと、母親譲りの柔らかな黒髪に包まれた息子の頭を解放した。


 続いて寝台に腰かけたラムセス二世は、山のように書物が積まれた目の前の書棚を眺めた。


「なあ、ワセトよ」


 と、話しだす。


「俺には山ほど子供がいるし、容赦なく戦場に蹴りだして来た。これからも躊躇わずそうする。だから誤解しているヤツも多いが……。俺には死んで惜しくねえ子供は一人もおらん」


 おそらく、書棚を眺めながら口にしようかどうか迷っていたのであろう。それでも彼は自身の心情をさらけだした。その意味するところを慮れないほど、カエムワセトは愚かな息子ではない。


「存じております。私も死に行くつもりはございません」


 答えたカエムワセトに、ラムセス二世は「ならよし!」と膝を叩いて立ち上がった。腰に刺してあった剣を鞘ごと外すと、カエムワセトの胸に押し当てる。


「かしてやる。持って行け」


 その剣は、ラムセス二世がカデシュの闘いで使用した一振りであった。刃こぼれした部分は研ぎ直され、今でも愛用品である。


 かしてやる、ということはつまり、必ず返せ、という意味でもある。それほどに、この男の嗅覚はやってきた嵐の深刻さを感じているのだろうか。

 カエムワセトは少なからずの不安を覚えた。だが、これは逃げる事のできない戦である事を思い出し、黙って剣を受け取った。


「命を含め、五体満足で戻れ。それ以外は許さん」


 そう言ったラムセス二世の顔は既に、父親のものから、いつもの王者に戻りつつあった。カエムワセトはそれを少し名残惜しく思いながらも、右手を胸に当てて「御意」と深く頭を下げた。


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