第11話 決戦はメンフィスにて
振り返ったカエムワセトに、ハワラは「おそれながら――」と手をもじもじさせて言った。
「殿下に母の葬儀をお願いできないでしょうか」
それは思いがけない頼み事であった。
ライラとアーデスは黙っていたが、各々呆れかえった表情は、『そいつは無理だろ』と言っていた。
カエムワセトは、メンフィスにあるプタハ大神殿の非常勤神官である。故に、理論的に考えればカエムワセトがセム神官の役割を担うことも可能であった。だが、カエムワセトは公務で多忙な日々を送っている。今日初めて会ったばかりの少年の母親の葬儀を、しかも遠方に出向いてまで行うなどあり得なかった。ハワラもそれは承知の上であった。承知の上で食い下がった。
「母は父が亡くなってから、女だてらに慣れない装飾細工職を懸命にやってきました。それでもうちには十分な供物を用意して上げられるだけの財がありません。殿下に送って頂けたら、母も来世で安らかに暮らせると思うのです」
苦労がたえなかった母親を想う息子の気持ちは分らなくはない。だがしかし、ハワラの言い分が通るならエジプト中の遺族がカエムワセトに葬儀を依頼したがるであろう。なにせカエムワセトは魔術師には遠く及ばないにせよ、神官の域を超えた魔術を使うからである。
「おい、お前な」
アーデスは頬をぽりぽり掻きながら、ハワラを窘めかけた。だが、カエムワセトの「承知した」との返事に「はあ?」と素っ頓狂な声を上げる。
「幸い、遺跡の調査に出るまでまだ時間に余裕がある。それに次はサッカラだろ。メンフィスとは目と鼻の先だよ」
「そういう問題じゃねえだろ」
にこやかに言ったカエムワセトに、アーデスは呻いた。
「なあ小僧。お前の母親はプタハ大神殿で世話になるのか?」
アーデスは眉間を揉みながら、念のためハワラに確認した。プタハ大神殿は、メンフィス最大の神殿総合施設である。そしてその規模は、プタハ大神殿がメンフィスで最も力を持つ証でもあった。供物も十分に用意できない貧しい家が世話になれる場所ではない。
アーデスの予想通り、ハワラは自分達家族が普段利用するのは町の外れにある小さな神殿だと答えた。
「仕事を横取りする事になるぜ。お前さんの上司が許すとは思えんぞ」
カエムワセトの上司であるプタハ大神殿の最高司祭は神経質で頭の固い男であった。そんな人物が、マナー違反とも言える行為を部下に許すはずがない。
「確かに、フイ最高司祭には怒られるかもしれないが……」
苦笑いながも、カエムワセトは悪びれない調子で続けた。
「これも何かの縁だ。聞けない願いではないよ」
アーデスは、自分の主人はその柔和な外見に反して、こうと決めたら譲らない性格である事を承知している。これ以上の問答は無駄だと悟ったアーデスは、「分かった」とすんなり退いた。
ハワラが心底安堵したように肩の力を抜いた。
主人を同じくする女兵士をちらりと見ると、彼女は困ったような笑顔を浮かべ、部屋を出て行くカエムワセトを見送っていた。そのお花畑な心情を容易に想像できたアーデスは、「うへえ」と口をゆがめた。
一方、リラに目をやると、彼女は藍色の空に登った月を眺めていた。今夜は満月である。
昨夜夕食を取った部屋と同じく、庭に面した壁が柱のみで構成されているこの部屋では、今日のような満月であれば、松明やランプを灯さずとも同室している人物の表情が分るほどに明るい。
直情的なライラに反して、普段から掴みどころのないリラが今何を考えているのかは、明るい月明かりの下でも読み取れなかった。
★
女官が盆にオイルランプを乗せて持ってきた。先程までカエムワセトが座っていた椅子にアーデスとライラの二つ分を置くと、残り一つを持ってハワラとリラに夕食の用意が出来たと声をかけた。今夜は、それぞれが別に食事をとる予定になっていた。
三人が部屋から出て行くと、アーデスは頭を乱暴に掻いた。
「どうしたの?」
「ありゃあ殆どが嘘だ」
アーデスは苛立ちの混じった息を吐くと、ライラにそう答えた。
ライラは数秒間黙った後、「あれって、どれよ」という間抜けな質問をしてきた。
「ハワラだよ」
アーデスは、三人が出て行った出入口を顎で示した。
「あの子が? まさか。あんなに真剣だったのに?」
歳若い女兵士は、すっかり情にほだされてしまっていた。母親。子供。幼い弟妹。この三つを出されては、ライラの年齢と経験値では仕方ないのかもしれないが。
「三十路を甘く見るんじゃありませんよ。眼の動きに身体の動き、それから声の調子。下手クソなスパイまんまだぜ」
傭兵としてラムセス二世に雇われいくつも戦場を経験してきたアーデスは、間者を捉えて尋問した経験も多い。ハワラの挙動は、大した訓練もされず捨て駒として使われていた間者達と全く同じであった。
「大体、なんであいつはワセトがトトの書を手に入れた事を知ってんだ。あれは、限られたもんしか知らんはずだろ」
ライラが「あっ」と口に手を当てた。
トトの書を求める旅は公ではなかったのである。
ハワラのような平民が、トトの書の一件を知っている訳がない以上、ハワラを動かしているのはトトの書の一件を知っているほどにカエムワセトに近しい人物。もしくは、ハワラがトトの書を作った神の領域の存在と繋がっていると考えるべきである。
アーデスは、トトの書の一件を知る者たちの顔をざっと頭の中で並べた。その中にはうっかり口外するうつけ者も、カエムワセトを陥れようと企む政敵もいない。そうすると、人より厄介な存在がハワラの後ろについてるとみて間違いなさそうである。
「あっちの世界でも有名人になっちまったようだな。めんどくせえ」
苦虫を噛み潰したような顔でアーデスが言った。
かつて、カエムワセトより先にトトの書を手にした古代の王子がいた。ネフェルカプタハという魔術使いの王子である。彼は苦心の末にトトの書を手にしたが、神々の知識を人が用いる行為は禁忌であった。トトの書の著者である知恵の神トトも、その定めに則りネフェルカプタハに天罰を与えた。ネフェルカプタハは妻子の命を奪われ、悲しみのあまり自害したが、死してもなおトトの書を抱え、守護役を担わされたのである。
カエムワセトは一度、ネフェルカプタハからトトの書を奪い取っている。幸い罰こそ与えられなかったが、その一件が神々の世界で知られていないとは考えにくい。
ライラの顔から血の気が引いた。オイルランプも持たず、部屋を飛び出そうとする。
「どこ行く気だ」
アーデスがライラの片腕を引いて制した。
「殿下をお止めするのよ」
ライラは腕をふり解こうとした。よせ、とアーデスは言った。
「ワセトが気付いてねえはずねえだろ」
お人好しとは言え、下手な間者程度の嘘を見破る目くらいはカエムワセトとて持ち合わせている。ハワラが王家に忍び寄る嵐である事は、リラから目通り前に知らされてもいる。
「それでも行くっつーんだから行くしかなかろうが」
諭して最後に、アーデスは「だろ?」と声色優しく重ねた。
ライラは口を結んで、頷いた。
ハワラの後ろについている者が何を企んでいるかはまだ知れないが、ハワラが何が何でもカエムワセトをメンフィスに連れて行きたいらしいというのは良く分かった。
闘いの場所はメンフィスである。
アーデスはライラに気合が入った事を確認すると、オイルランプを一つ手渡した。そして
「よっしゃ、気ィひきしめて行くぜ! 相棒」
と強めにライラの背中を叩くと、旅支度を整える為、自分もランプを手にとり大股で部屋を出た。
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