第10話 ハワラの頼みごと

 ハワラの頼みは、カエムワセトが手にしたトトの書を使って、先日病死した母親を生き返らせてほしいというものであった。父親はおらず、彼の下にはまだ幼い弟妹がいるのだという。このままでは弟妹共に路頭に迷ってしまう。何より母親が恋しいのだと、ハワラは泣いた。


「身勝手なお願いだとは存じております。ですが、どうかお助けください」


 床に額をこすりつけ、ハワラは必死に慈悲を請うた。


 魔術が存在し、医療も日々進歩し、豊かな国力を誇っているとはいえ、平民は未だ厳しい生活環境を強いられている。故に、不幸な理由で家族を亡くす者も少なくなかった。親を亡くし路頭に迷った末、路上生活を強いられる子供や、娼館に身を投じる少女も大勢いたのである。事実、この場に居る全員が、家族の全てまたは一部を亡くしていた。寂しさを満たし生活を守るため、死んだ親を生き返らせたいという願いは、この国ではあまりにも贅沢すぎた。


 同情と非難が入り混じる沈黙の中、カエムワセトは土下座するハワラの背中を静かに見ていた。が、やがて立ち上がり、膝をつくと骨の浮いた小さな背中に手を添えた。


「すまないが、私は君の母君を生き返らせる事はできないよ」


 ハワラは顔を上げると「何故です!」と語気を荒げた。


「トトの書があれば、死者の再生も可能だと聞いております。殿下はお持ちなのでしょう」


「私はもう、トトの書は持っていない」


 カエムワセトは首を横に振った。


「やはりあれは、私のような人間が扱ってよい代物ではなかったんだよ。だから見つけてすぐに封印したんだ」


「嘘を仰らないでください!」


 ハワラは立ちあがって叫んだ。

 ここまで微動だにしなかった赤毛の女兵士が危険を察知した野生動物のように身体を伸ばすと、素早く腰の剣に触れた。カエムワセトは後方を振り返る事無くさっと右手を上げ、抜剣を止めさせた。


「何故嘘だと?」


 突然殺気を帯びて剣を抜こうとした女兵士の行動にうろたえたハワラだったが、根拠を問うてきたカエムワセトに、跳ね返る心臓を手で抑えながら答える。


「だってカエムワセト殿下は、何度も街や村を風水害から守るという奇跡を起こされたと聞いています。それは、トトの書の力をお使いになったからではないのですか?」


 今度はアーデスが「あん?」と眉をしかめた。


「奇跡って、あの天気予報のことかよ?」


 カエムワセトは遠征先で旱魃や蝗害を予期し、被害を最小限に抑えて人々を助けた事が幾度かあった。カエムワセトに付き従っているアーデスが思い当たるエピソードは、それくらいである。

 ハワラは奇跡と言ったが、実際やった事は大いに人力に頼った突貫工事であった。奇跡と呼ぶには大げさすぎる。


「天気予報はないでしょうが。あんたが言うと、殿下の偉業が安っぽく聞こえるのよ」


 赤毛の女兵士がムッとした表情で異議を唱えた。その声は、ハワラが予想していたものよりも幾分高かった。


「アーデスの言うとおりだよ、ライラ。私は災害を予告しただけで、回避はしていないんだから」


 カエムワセトが宥めるように言った。ライラは、渋々ながらも頷いた。


「ハワラ。国を守ったのは私でなく国民だ。彼らが来る災害に備えて食料を備蓄し水を溜め、柵を築いたからこそ災難を最小限に抑えられたんだ。奇跡なんかじゃなくて、人の力が成し遂げた成果なんだよ」


 カエムワセトは丁寧に、ゆっくりと説明した。


 ハワラはカエムワセトの話を聞きながら拍子抜けしていた。

 ハワラが噂に聞いていたカエムワセトの姿は、膨大な知識と強大な魔術を操る救世主の如き人物像であった。しかしカエムワセト本人から告げられた事実は平凡で、人柄も親しみやすかった。


 結局、噂は噂でしかなかったのである。誇張されていたのだと知ったハワラは一気に興奮が冷めた。思わず大きくため息を吐いたハワラを、カエムワセトは笑った。


「私は神官だからね。神殿には気象学や天文学に精通している仲間が大勢いて、彼らから多くの情報を得られるんだ。だからこれは学問であって、魔術ではないんだよ」


「では、殿下は魔術を使えないのですね?」


 その質問に、カエムワセトは答えなかった。その代わりライラが、掌で金色の髪の少女を示した。


「魔術師は、このお嬢ちゃんよ」


 ライラに紹介された少女は、にこりと微笑むと指先でハワラに手を振った。


 光明を見つけたように、ハワラの顔が明るくなる。


「それじゃあ、あなたは母さんを生き返らせる事が出来ますか」


 それに対し少女は薄い微笑みで「できない事はないよ」と答えた。そして同じ表情で、「でも、あんたのお母さんはきっと不幸になるよ」と続ける。


「この世の魔術は全て自然の力を借りたもので、ちゃんと決まりがあってね。死者の復活は神様に許されない限り、復活する者を自然界の輪から完全に放りださなきゃいけないんだ。生き返った者は、もう二度と来世(あの世での生活)が叶わない。それでもいい?」


 少女の無垢な笑顔と口にしている内容の残酷さの差異に、ハワラは混乱した。


 死後の世界に希望を見出しているエジプトでは、死ねばよほど貧しくない限りミイラ職人に遺体をミイラ処置してもらい、一般的な神官であるセム神官に祈祷や呪文を唱えてもらい、護符を挟み、生前の愛用品や食べ物と共に遺体を埋葬する。そうすることで、死後の世界である来世に辿り着くまでに訪れる試練に打ち勝ち、魂が再び肉体に戻ろうとした時に困らぬよう身体を確保するのである。

 そこに支障が生じるという事は理解できたが、具体的にどのような弊害が起こるのか、ハワラには今一つ想像できなかった。


「つまり……どうなるの?」


 おずおずと遠慮がちに訊ねてきたハワラに、魔術師の少女が、非常に分かりやすい言い回しで絶望的な結論を告げる。


「次に死んだら最後。オシリス(冥界の神)の元に行けず、魂は永遠に暗黒を彷徨うしかないんだよ」


 ハワラは絶句した。


 ライラとアーデスも初めて知った事柄であったため、神妙な面持ちで顔を見合わせる。


「私もトトの書で腹違いの兄を生き返らせようと思っていたんだ。でも諦めたよ」


 一年前、リラに全く同じ事実を教えられたカエムワセトは、これがトトの書を手放した最大の理由であるとハワラに語った。


 ハワラは青ざめて床を見つめながら「知らなかった……」と呟いた。


「例外は、ないんですよね」


 奇妙な質問をしてきたハワラに、魔術師の少女は首を傾げると、「わたしが知る限りでは」と答えた。


「あんたのお母さんの遺体はもう埋葬されたの?」


 ライラの声色が普段に比べ幾分優しいと感じたのは、アーデスだけではなかった。


 ライラの問いに、ハワラは、死んで二週間ほどなので、まだ処置室だろうと答えた。


 ミイラ処置には、最も安易なものでも七十日ほどを要す。二週間目であれば、腸内の洗浄を終え、乾燥・防腐作用のあるナトロンに浸されているところであろう。

 家を空けている間、弟妹は親しくしていた近所の女性にみてもらっているという。

 それなら急ぐ必要はなさそうだとカエムワセトは判断した。


 陽はすっかり落ちていた。灼熱の昼間とはうって変わり、湿り気を帯びた涼しい風が部屋に吹き込んできた。


「部屋を用意するから今日はゆっくり休むといい。体力が戻るまで、数日いてもかまわない。帰りはアーデスに送らせよう」


 カエムワセトの提案にアーデスが「なんで俺?」と面倒くさそうに異議を唱えた。しかし全員から『担ぎ込んだのはお前だ』という無言の圧力を頂戴し降参する。


「ちゃんと送ってあげようね。来世に行けるように」


 リラの言葉に、ハワラは頷いた。


 それじゃ、とカエムワセトは立ち上がった。女官に部屋の準備を頼んでくるからここに居るようハワラに指示し、部屋を出て行こうとする。そこを、ハワラが呼びとめた。

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