第三章 嵐が歩いてやってきた

第9話 痩せた少年

 翌日。ぺル・ラムセスの大通り。人がごった返す道の真ん中を、一人の少年がふらふらとした足取りで歩いていた。着古された頭巾と腰巻は茶色く変色しており、それをまとう骨の浮いた小さな体は、砂と汗で汚れに汚れてまるで幽鬼のようである。

 

 その少年が往来を一歩進むたび、すれ違う人々は、ぎょっと身を引き、道をあけた。中には彼を案じ「おい、坊主大丈夫か?」と声をかける者もいた。しかし彼は何も言わず、目的地に向かって歩みを進めるだけであった。虚ろな瞳は、ただ一点を見つめていた。王宮である。


 王宮の門前では、今日も左右にひとりずつ番兵が立っていた。兵の一人が危うい足取りで近づいてくる少年を見つけ、槍を構えた。


「おい、そこの。止まれ」


 今にも倒れそうな少年のその姿ゆえ、兵士の声はさほど緊張していなかった。恐らく腹をすかせた路上生活者だろうと勝手に判断した兵士は、槍の切っ先を少年に向ける事さえしなかった。


 少年は兵士の前で膝から崩れ落ちると、落ちくぼんだ両目で兵士を見上げ、懇願した。


「どうか王子に……お目通りを。お願いします」


 そのただならぬ様子に兵士は一瞬たじろいだが、直ぐに厳しい態度に戻り少年を叱りつけた。


「馬鹿を言うな! 簡単に目通りが叶う訳がないだろう」


「お前、腹が減ってんのか?」


 反対側にいた兵士が、少年に訊ねた。

 少年は首を横に振ると、大粒の涙を流しはじめた。


「おねがいします、助けて下さい! 殿下! でんかぁぁ!」


 悲鳴を上げるように泣き叫んだ。

 極限までの乾燥でひび割れていた唇からは、口を大きく動かした事で血が噴き出した。その姿と声には鬼気迫るものがあり、おののいた兵士たちは思わず後ずさった。

 そこに、一人の男の影が加わる。


「殿下っつーのはどの殿下だ。この国は王子だらけだぜ」


 泣き叫ぶ少年の上に落ちた男の影は、やや渋みのある落ち着いた声で少年に訊ねた。

 少年が涙に濡れた顔を上げると、中天にさしかかる太陽の元に、壮年の男の髭面が浮かび上がった。


「名前を言わんにゃ分らん」


 口元と顎に無精髭を生やしたその男は少年を見下ろし、しかめ面でそう続けた。

 人の良さは感じさせないものの、この男が信用に足る人物である事を少年に確信させる程度には、彼は良心的な人相をしていた。


 少年に槍を向けた兵士が、「アーデス殿」と男の名前を呼んだ。アーデスは、ラムセス二世の所要から帰ってきたところであった。


 少年はアーデスの脚にすがりつき、「カエムワセト!」と声を震わせた。


「カエムワセト殿下に、会わせて下さい」


 絞り出すように言うと、少年は倒れて動かなくなった。



 王宮の謁見室では、ネフェルタリおよび皇太子とカエムワセトが、ラムセス二世を説得中であった。不作に備え、農夫を建設現場から畑へ戻す為である。

 皇太子と重鎮達が再三説得を試みても、ぬかに釘であった状況を見かねて、ネフェルタリとカエムワセトが加勢したのだった。


「畑の労働力が足りていないのは明らかです。とにかく一度、建設労働者を選別すべきかと」


 と、カエムワセト。


「農夫を畑に戻す事に関して反対する者は一人もおりませんよ、父上」


 と、皇太子。


「陛下が賢帝と呼ばれるのは重鎮や王子たちの働きあっての事です。それを忘れてはなりませんわ」


 最後にネフェルタリ。

 ラムセス二世は不服であった。だが一方で、少々度が過ぎていたという自覚も有ったのである。そろそろ潮時かとふと考えたタイミングで「さあご決断を」と三人に詰め寄られた。


「分ったよ分ったから。ぐいぐい近づくな暑苦しい」


 玉座に座るラムセス二世を囲うように距離を縮めて来た三人を、ラムセス二世は両手で押しのけた。

 視界が少し開けたところで、ネフェルタリと皇太子の隙間から金色の髪を揺らした少女を見つけたラムセス二世は、「よおリラ」と声をかけた。


 リラは謁見室の入り口の手前で亡霊のように立っていた。


「おとりこみちゅうしつれいいたしまするけど」


 口にしてからリラは眉をひそめて首を傾げた。ファラオと正妃の前故に、リラなりに気を遣ったのであろう。ただ、使いなれない為に失敗したようである。


「リラ、どうした?」


 気遣わしげに訊ねたカエムワセトに、リラは「うん」と顔を上げると静かに告げた。


「きたよ。嵐」



 死んだと思われた少年は、気を失っていただけであった。兵士たちが止めようとする中、アーデスの小脇に抱えられて入城に成功した少年は、簡素な寝台の上で目を覚ました。近くに居た女官に、ここはどこかと訊こうとしたが、問答無用で風呂に放り込まれた。フラフラで風呂から上がった彼を待っていたのは清潔な衣服と、ぱっくり割れた唇を保護する軟膏と、野菜を柔らかく煮込んだ軽い食事であった。


 そして彼は今、一人の青年の前に跪いて座っている。


 夕方にさしかかるやや赤みを帯びた日差しが、青年の柔和で理知的な顔を照らしていた。

 髪を短く切り揃え、丈の長い白いチュニックに蒼いショールを斜めがけした姿は、一見、神官のようでもあった。しかし椅子に腰かける青年の後ろに完璧な立位姿勢で従う赤毛の女兵士や、昼に自分を助けた、見るからに腕が立ちそうな男の存在が、青年が相応の身分である事を物語っていた。加えて、金色の髪の少女の存在感は少年から見ても異様である。


 少年は落ち着かず、そわそわと身体を動かした。


「君は?」


 青年が短く訊ねてきた。その声は驚くほど柔らかだった。親切な言葉がけをされた訳でもないのに、心身ともに憔悴していた少年は思わず涙をこぼした。


 少年は慌てて手の甲で涙を拭き取ると、はっきりとした声で答えた。


「ハワラといいます。メンフィスから来ました」


「独りで?」という質問に短く「はい」と返すと、青年が驚いたように目を見開いた。

 後方の女兵士も、ぽっかりと口を開けてハワラを見ている。


 城門で倒れたハワラは、路銀や武器はおろか水袋さえ持っていなかった。メンフィスからぺル・ラムセスまでは、約二千セスヘン(二十㎞)である。大人であれば休憩をとりながら半日もあれば到着するが、子供はその倍は要するであろう。加えてアケト前のこの時期はとにかく暑い。


「よく砂漠を超えられたな」


 髭面の男が呆れつつも感心した。


 年齢を聞かれたので、ハワラは十二歳だと答えた。


 青年は「そうか……」と呟くと男に顔を向け、無言の質問を投げかけた。男は広い肩をすくめると「お前さんに任せるよ」と答えた。必要最低限の会話さえ不要なほど、彼らが親しい間柄である事をハワラは察した。


 青年が男に頷き、ハワラに向き直った。


「ハワラ。自己紹介が遅れてすまなかった。私はカエムワセト。この国の第四王子だ。君を城門で助けた彼はアーデス。私の剣の師匠だ」


 師匠だと紹介された男は嫌そうに髭面をしかめると「やめろ、ただの傭兵だ」と訂正した。


「あなたが、カエムワセト王子ですか」


 目の前の物腰柔らかな青年が自分の求めていた王子だと知ったハワラは、安堵した反面緊張した。確かに穏やかではあるが、見抜いてくるような眼差しから、決して御しやすい相手ではないという事が伝わってくる。


 ごくりと唾を飲み込んだハワラに、カエムワセトは促した。


「私の助けを求めて来たと、アーデスから聞いている。どこまで力になれるか分らないけれど、まずは話を聞かせてくれないか」

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