第8話 穏やかな夜

 食事が終わって絨毯もクッションも片付けられ、アーデスやライラは各々、兵舎や執務室へ行った。カエムワセトも本日届いた書簡のチェックのため、一旦自室に戻った。中庭に続く部屋にはリラだけが残った。


 給仕の女がリラに、デーツ(ナツメヤシの実)のワインは如何かと訊ねた。リラは丁寧に断って、中庭に下りて行った。


 リラは素足に、日中の熱を溜め込んだ石のほんのりとした暖かさを感じながら、庭を見渡した。蓮が浮いた大きな池の周りには、多種多様な植物が植えられており、その中でも抜きん出て背の高いヤシの木は、砂漠からやって来る風に吹かれて大きな葉を揺らしていた。嵐の気配など微塵も感じさせない、穏やかな夜である。


 自室から戻ってきたカエムワセトが、柱の側でころんと転がっていたリラのサンダルを拾い上げて、中庭におりてきた。


「サンダルは?」


 差し出すカエムワセトに、リラは首を横に振った。


「いらない。裸足のほうが好きなんだ」


 カエムワセトは「わかった」と応じて、小さなサンダルをチュニックの上から斜めがけしたショールの下に入れた。用意してくれた女官には悪いが、後で返しに行こうと考える。


 初めて会った時も、リラは裸足だった。サンダルを履く習慣が無いのかもしれない。そもそも、サンダルを履くのは貴族以上の裕福な者達だけであった。


「リラの部屋は前の時と同じ一階の、奥から二番目だよ」


 どうせなら慣れた部屋のほうが眠りやすいだろうと、カエムワセトは以前リラが使っていた一室を与える事にした。だがリラは、サンダルだけでなく、寝室さえも要らないと言う。


「ここでいいよ。涼しいし、星がきれい。まるでオアシスみたいだもん」


 リラは一見、生まれてこのかた太陽の下に出たことがないような、か弱そうな少女に見える。だがその実態は、着の身着のまま、たった一人で砂漠を旅する野生児であった。普通の人間が同じ事をすれば、二日ともたず砂に埋もれてしまうであろう。


 相変わらずの奇想天外ぶりに、カエムワセトは愉快に笑った。


「確かに気持ちがいいね。でも、お客人を外で寝かせるわけにはいかないな」


「いっぱい考える事ができたんだね。ワセト」


「え?」


 ふいに別の話題をふられ、カエムワセトは面食らった。リラが何故そんな事を言ったのか分らなかった。だが、その答えは次の言葉からあっさり見つかる。


「眉間の奥に色んな心配事が渦巻いてるのが見えるよ。でも、ワセトにはとてもいい変化だ」


 幼い少女の姿と声に似合わない年長者のような口ぶりと、真実を見抜いた発言は、この魔術師の少女が時折垣間見せる、常人でない証である。


 カエムワセトは旅から帰ってすぐに遺跡の発掘調査の命を受けた。他にもぺル・ラムセスでの建設事業の一端も担い、非常勤ではあるがプタハ大神殿の神官職も務めている。


 遺跡と新都を行き来する生活は決して楽なものではない。しかも次から次へと各現場からカエムワセトへの指示書が届くものだから、常に複数の問題を抱え、何かしら考えている状況が続いていた。リラはきっと、その事を言っているのだろうとカエムワセトは思った。


「リラに出合った頃は、一つの事しか頭になかったからね。この一年で、私を取り巻く環境は随分変わったよ」


 トトの書を手放すまでは、兄を蘇らせる事で頭が埋め尽くされていた。改めて自分は大きな変化をとげたのだと気付く。


「トトの書なんか無くったって、ワセトには色んな事ができるもん」


 一年前、トトの書を返す決意をしたカエムワセトに言った言葉とそっくり同じ台詞を、リラは再び口にした。


 否定の意を拭えなかったが、カエムワセトは微笑むだけでとどめておいた。


「リラは、あれからどうしてたんだ?」


「色んな生き物と暮らしたよ。トカゲとか、ジャッカルとか、蠍とか、カバとか、人とか。あと、鰐も」


「そこでペストコスに会ったのか?」


「うん。そう」


 神の使いと遭遇するなど日常茶飯事なのであろう。リラは何でもない事のように頷いた。


「ペストコスが感じ取った嵐か。今考えられるのは、不作による飢饉だが……」


 カエムワセトは警告を受けてからずっと、余波と考えられるような現象は無かったか記憶を探っていた。思い当たったのはトキの飛来の遅れである。


 リラがおもむろに手を伸ばし、その小さな白い手でカエムワセトの右手を包んだ。

 驚いて目をし瞬くカエムワセトに、いつもと変わらぬ笑顔と声で、はっきりと告げる。


「大丈夫。守ってあげるよ。ちゃんと」


 自分より四つも年下の少女に守ってやると言われ、カエムワセトはしばし、呆気にとられた。愚図なりにも男として少なからずのショックも受けた。だが、孤独主義のリラが、助力となるため再び都に足を踏み入れてくれた想いは非常に嬉しかった。


「帰ってきてくれてありがとう。とても心強いよ」


 心から感謝を述べたカエムワセトに、リラが微笑んで右腕を伸ばした。その指先の延長線上には、たわわに実った葡萄の木があった。


「お腹すいた。あれ食べたいな」


 三人前の料理を平らげて間もない状態で、早くも旺盛な食欲を発揮するリラに、カエムワセトは楽しげに笑って快諾した。



 執務室にまだ残っていた司令官に、明日からの訓練内容を報告した弓兵小隊長のライラは、自室へ通じる廊下を歩いていた。窓から差し込む月明かりに照らされて、石造りの廊下はぼんやりと明るい。


 ライラは視界の隅に入った光景にふと足を止め、窓の外に広がっている中庭を見た。ちょうど、カエムワセトが葡萄を一房もいだところであった。


 カエムワセトが葡萄の房に手をかざすと、まばらだった実が数を増し、隙間をぎっしり埋めた。カエムワセトの魔術で立派になったその一房が、リラの手に渡る。


 突如、ライラの脳裏に幼い頃の思い出が蘇った。ライラとカエムワセトがまだ主従関係になく友人であった頃。カエムワセトは王宮にあった葡萄の木から熟した房を選んでもいでは、先程の様に隙間を埋めてライラにくれたものだった。カエムワセトが増やした粒は、元々あった粒よりも瑞々しく、デーツよりも甘かった。


 ライラは胸に焼けつく様な不快感を覚えた。庭で仲良く佇む二人の間に割って入りたい衝動に駆られた。しかし、ライラは自分の衝動に従わなかった。天井を見上げ、不快感を吐きだすように大きく息を吐くと、表情を引き締めて前を向いた。そして何事も無かったかのように、颯爽とした足取りでその場を立ち去った。


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