第4話 新都ぺル・ラムセスと王妃ネフェルタリ

 下エジプトと呼ばれるナイルデルタ地帯のほぼ末端に位置する新都ペル・ラムセスは、ラムセス二世の父、先王セティ一世から着工が始まった新都である。以前はアヴァリスという名の港町であった。


 当時の都は、テーベという都市にあった。アヴァリスからナイル川沿いに南へ半日歩いた距離にある古都メンフィスから、更に三日歩いた場所である。


 首都ペル・ラムセスは、古くから港町として栄えていただけに、様々な物資や人種が行きかう貿易都市へと発展をとげた。そういったペル・ラムセスの最大の利点は、ナイル川上流にあるテーベと違い、周辺諸国に近い分だけ、各国の情勢の変化にすばやく対応できる事であろう。


 ラムセス二世は、この都市をテーベに劣らないほど美しく、壮大な建築が建ち並ぶ都市にしようと、多くの神殿を建設させた。また、街全体を、幸運を呼ぶとされているトルコブルーに装飾させ、これまでに無いほど美しい外観をもたせた。この新都の人気は非常に高く、未だ建設中であるにも関わらず、エジプト全土から多くの者が移住してきている。


 建設労働者達への指導を終えて王宮へ帰る道すがら、カエムワセトは監督役や労働者達に指導した内容を腹心の二人に説明していた。


「彼らは勘違いをしていたようだけど、ソリの前に水を撒くのは砂塵を抑える為じゃなくて、砂を固める為なんだ。重い物をソリで運搬する時に最もネックになるのは摩擦。中王国時代の壁画にも描かれているけれど、先人達は道の先に水を撒いて砂を固め摩擦を抑える事により、労力を半減させたんだよ」


 近年、ぺル・ラムセスでは運搬に荷車が多用されるようになっていた。ある程度整地された道では、ソリよりも車輪のある荷車の方が楽に移動できたからである。

 監督役は建築を学んだプロではあったが、歳若い青年であった。師からはソリを使う際には水を撒けと教えられてはいたものの、その目的までは習っていなかったのである。故に砂塵を抑える様な散水をし、本来の目的を成していなかった、というわけであった。


 かつて当たり前に存在していた知恵というものは時代の流れと共に風化し、中身を伴わず形だけを残し、やがては消えゆく運命にある。遺跡の調査はそういった忘れ去られた先人の知恵や技術を掘り起こし、再び日の目を見せる役割も担っているのである。と、カエムワセトは熱く語った。


 アーデスは「へえ」とどうでもよさげに欠伸をした。ライラは律儀に頷いて聞いてはいるが、笑顔が努力的である。

 カエムワセトは少々熱弁が過ぎたと恥じ入りながら口を閉じた。


「それにしても、農夫をかりだすのはよくねえな」


 アーデスが耳をほじりながら言った。泥水が入って気持ちが悪かった。


「確かにそうだな……」


 カエムワセトが応じた。

 先程の石像を運んでいた男衆は土木作業員ではなくアルバイトとして雇った農夫だと、監督役から聞かされていたのである。


 古代エジプトにおいて、農閑期は殆ど存在しない。ナイル川の満ち引きに頼った灌漑農業であるため、増水前後は治水工事に精を出さねばならない。その間にもナツメヤシや葡萄などの収穫がある。また、収穫物の加工もせねばならない。ちなみにナイル川の水かさが増すアケト(増水期)直前の今は夏野菜の収穫期でもある。水が引けば種まき。そして収穫。つまり農民は暇なしであった。パンとビールと少しの干し肉を日当にかりだす相手としては相応しくない。しかし、ファラオの命令とあらば従わなければならないのが国民の辛い所である。


「あのままじゃ本業が疎かになりかねないな。国の食物庫が揺らいでは、元も子もないのに」


「あいつもお前と一緒で熱中すると度が過ぎるからな。大臣や皇太子からの小言も耳に入ってねえんだろうよ」


 かつてはラムセス二世の右腕としてカデシュの戦い(ヒッタイトとの戦争)で傭兵部隊の隊長も務め上げた豪傑アーデスは、戦友の悪癖もよく知っていた。


「殿下から一言申されては? 殿下の御言葉には比較的耳を傾けて下さいますし」


「素直に聞いてくれるとは思えないよ。ただでさえ失敗したばかりだから」


 ライラからの提案にカエムワセトは難色を示した。

『まったく。このまま放っといたら怪我人が出るぞ。面倒癖え』と大層ご立腹な様子で逃げたカバを追いかけていったラムセス二世を思い出したライラとアーデスは、同時に「ああ……」と残念そうに納得した。


 王城に到着した三人は、番兵から胸に右掌を当て敬礼を受けながら城門を潜った。


 中には神殿の参道とよく似た石畳が真っ直ぐに伸び、その両端には羊の座像がずらりと並んでいる。城壁の内側にはオアシスを張り巡らせたように瑞々しい植物が風に揺れていた。 


 ここまで来れば、泥だらけの身体を市民にさらす心配は無い。体中にこびりついている泥はいつの間にか乾いており、今では歩くたびに劣化した漆喰の様に剥がれ落ちてゆく。三人は体中の泥を叩いて落としながら、広大な前庭の石畳を進んだ。


 広間に続く坂道を登り切ったところで、奥から真っ白な亜麻布のドレスを纏った女が左右に侍女を伴って現れた。正妃ネフェルタリである。ネフェルタリはカエムワセトの姿を見つけると破顔して歩みを速めたが、三人の姿を目の当たりにするなり立ち止まった。「まあ酷い格好」と目を瞬く。


 カエムワセトは「少々カバに追われる羽目になりまして」と笑顔をひきつらせた。


 ネフェルタリは朱の唇をぽかりと開けて驚きを顕わにした。――が、すぐに理知的な面ざしを取り戻すと、「お怪我がなくてなによりよ」と小さなパピルス片をカエムワセトに差し出す。メンフィスの伝書鳩が運んできたという。


 カエムワセトが丸まったパピルス片を広げると、そこには神官文字で


『トキの飛来、未だ確認できず』


 と書かれてあった。メンフィスのプタハ大神殿からの定期連絡であった。


「今年は随分遅れているようですね」


 先に読んだのか、ネフェルタリが眉をひそめて言った。


 エジプト人にとって命の源でもあるナイル川の増水は夏に起こり、その合図はシリウスの出現とトキの北上である。ナイルは南から北へと徐々に増水を始め、それに伴いトキも移動するのである。


「セペデト(シリウス)は一昨日に現れたというのに。今年は不作でしょうか」


 カエムワセトは言いながら、パピルス紙をくるりと丸めて戻した。


「ところで陛下はいずこに? ご一緒ではかったのかしら?」


 ネフェルタリが辺りを見回した。新年祭に向けて宰相が相談事を持ってきたというのである。


「父上は、まだ湿地ではないかと」


 答えた丁度その時、回廊の奥から賑やかな集団が近づいてきた。熱帯魚のように華やかな女性達と灰色の塊を後ろに従え、実に堂々とした歩様で列柱廊下を進む男は、カバ狩りを終えたラムセス二世である。


 灰色の塊は、湿地でカエムワセトらを追い回した雄カバであった。板の上に乗せられ、神輿の様に担がれている。既に事切れていたが、体中に刺さった矢や槍が痛々しかった。




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