第3話 美談の陰に生きた者

 ラムセス二世が統治する第十九王朝では、美談が一つ、存在した。それは、ラムセス二世の第三王子が命を賭して異母弟を水死から救った、という話である。亡き第三王子プレヒルウォンメフの美談は、勇気や兄弟愛の象徴として、全国民の知るところであった。


 だが、美談は美談として終わらないのが現実である。命を救われたその弟が、苦しみもせず、のうのうと生きていられるわけがなかった。


 自分の身代わりのように兄を失った弟は、その後、民衆に語られる美談の裏で苛烈な子供時代を過ごした。ひたすら兄の復活を願い、寝食を忘れ死者蘇生の術を探し求めたのである。トトの書、という一つの光明を見つけると、次はそれを手に入れる為に邁進した。より多くの知識に触れる為、神官の職に就き、神話、科学、魔術、歴史、地理、言語。役に立つと思われる学問は全て貪欲に吸収した。そして、周到な準備の末にトトの書探索の旅に出たのが十三の頃である。


「トトの書はもう返しちまったんだし、お前もいい加減腰を据えて王子様しろよ。やる事いっぱいあんだろうが」


「分ってる。リラとの約束は、ちゃんと守ってるつもりだよ」


 カエムワセトは一度、トトの書を手に入れていた。四年の探索を経てようやく、である。しかし、最終的にもたらされたのは、生き返った兄でも心の平穏でも無く、諦めであった。


 トトの書を元の場所に戻す決心をさせたのは、リラという年端もいかぬ魔術師の少女である。


『お兄さんの幸せを望むなら、早く帰って自分の使命を探すんだよ』


 学者すら知り得ない知識を元に語られた、蘇生された者の悲惨な末路。そして、その最後に付け加えられた、独特の浮遊感を持ったその一言は、カエムワセトの心に滑りこみ、凝り固まった信念を溶かせた。


 ライラとアーデスと伴にペル・ラムセスに帰還したカエムワセトは、そこからやっと、一王族の役割を果たす為、公に活動を始めたのである。


「殿下は約束通り頑張っておられます!」


 突如、ライラが声を大にして言った。毎日五十人の弓小隊に発破をかけているだけによく通る声である。だがしかし、少々大きすぎてカエムワセトを面食らわせた。


「我が国は殿下の知識の恩恵を存分に受けておりますし、殿下を慕う市民は多いではありませんか。悪夢を見るのは、仕方の無い事です」


 ライラは何度も大きく頷きながら、興奮気味にそう続けた。頭の動きに合わせて、背中をすっぽり覆う赤毛が揺れている。


 カエムワセトは、戸惑いながらもライラに謝意を表す微笑みを向けた。

 仕方の無い事なのであろう、とはカエムワセトも思う。幼い頃に体験した苦しみと積年の望みは、その強烈さゆえに壁に残る日焼けの如く心に居座り続けた。そしてその日焼け跡は、今でもこうして己の存在を忘れさせまいとするように、時折夢という形で現れるのである。こればかりは、どうしようもない。


 けれどその度に、カエムワセトは自傷的な思いをせり上がらせてしまうのである。自分ではなく文武両道に秀でていた兄が生きていればどんなによかったことか、と。

 そのような情けない弱音は、間違っても口には出せないが。


「ライラはワセトに甘いからなぁ」


 アーデスが若い二人をからかおうとした。その時、大勢の掛け声が後方から聞こえる。


「しっかり引けー! どーんと押せー!」


 白い腰巻と大きな首飾りをつけた男の掛け声に合わせて、幾人もの男達が巨大な獅子の石像を乗せたソリを前進させている。建設現場の監督役と、建設労働者達である。

 建設労働者達の身なりは粗末で、フンドシに近い形状の腰巻一つだけ。中には局部を覆う布切れ一枚すら身につけていない者もいた。


 木製のソリに乗せた石像を押し、それにくくりつけたロープを引っ張り、砂にめり込んだ足跡を残しながら、彼ら建設労働者達は一心不乱に獅子の石像を目的地目指して運んでいる。


 精巧に造られた石像が大通りの中央を進む様子は実に迫力があり、地方や他国からの旅行者にとっては、一見の価値ありと言われている。

 しかしながら、ラムセス二世が精力的に神殿や公共施設の建築を進めているここ、新都ぺル・ラムセスでは、日常的に見られる光景であった。


 家畜小屋並みに大きな石像とすれ違う市民は、土埃を手で払いながら、巨石運搬の邪魔にならぬよう、当たり前に黙って道を譲る。


 カエムワセトは目の前の光景に眉をひそめた。いつもと何かが違っている。


 その違和感の正体を示すが如く、ライラが隣で首を傾げた。


「随分進みが悪いみたいですね。どうしてかしら」


 カエムワセトはライラの疑問に「え?」と眉を上げた。だがやがて、合点がいったとばかりに「ああ、そういう事か」と破顔すると、巨石の重さに音を上げ始めた建設労働者達の元へ歩いて行く。


「おい、ワセト?」


 何をする気かと呼びとめたアーデスに振り返ったカエムワセトは、


「これこそ、私に出来る得意分野だよ」


 と言って両の口角を上げると、ソリの前に溜まった砂を農具で横へかいている労働者達と監督役に話しかけた。身振り手振りで何かを説明し始める。


「水なんか撒いて何をなさるおつもりかしら」


「さあなあ。まあ、知識だけは豊富な奴だから」


 腹心の二人は、自らソリの前に水を撒いて何かを実践している主人を遠巻きに眺めた。


 水を含んで黒くなった地面を掌で何度か叩いてみせたカエムワセトは、監督役に言ってソリを進めさせた。大勢の掛け声とともに、巨石を乗せたソリが動き出す。だが、先程までと比べ、明らかに巨石の運びはスムーズである。


 労働者達から「おおっ」と驚きの声が漏れる。ソリはそのまま勢いを止める事無く滑るように前進していった。

 監督役の男が大喜びでカエムワセトの背中を何度も叩いた。



 第四王子カエムワセト。彼は少年期、狂人として過ごし、民からは愚図と嘲られた。

 そんな若者が、後の世千年にわたり、人々の記憶史に賢者としてその名を刻む人物となるのである。

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