第5話 魔術師リラ

「よお、お前ら。見ろよ俺の腕前を」


 ラムセス二世は上機嫌で、四人の前に獲物を乗せた板を降ろさせた。途中退場を余儀なくされたカエムワセトら三名はなんとも複雑な面持ちで息絶えたカバを見下ろした。


 一方ネフェルタリは、一瞥はよこしたもののすぐに興味を失ったように夫を見た。


「それよりも陛下。パセル宰相がお越しです。お急ぎくださいな」


「風呂に入るから待たせとけ。俺もどろどろなんだ」


 急かす妻にそう言ったラムセス二世は、後ろの側室達に振り返ると「お前達も一緒に入るか」と実にさわやかな笑顔で混浴に誘った。


 側室達は嬉しそうに湧き立つ。


「お一人でどうぞ」


 その知性に満ちた眦をわずかに釣り上げたネフェルタリは、前庭の池を指差した。泥なんぞ池で落としてさっさと仕事をしろ。という意味である。


 ラムセス二世は愛妻家で有名であった。その中でも、ネフェルタリへの寵愛は特別であった。それは、彼女がただ美しいだけでなく、後宮を如才なく取り仕切り、他国の妃と書簡を交わし政治に貢献するなど、比類なき才覚の持ち主であった事も無関係ではない。


 ネフェルタリの為に建設されたアブ・シンベル小神殿の入り口。ラムセス二世とネフェルタリの彫像が交互に並ぶ様子からも見てとれるが、ラムセス二世はネフェルタリを己と同格に認識していた。否。むしろ彼女が女である分、ラムセス二世は弱かった。つまりはカカア天下だったのである。


「分りましたよ行きますよ」


 ラムセス二世は肩を落とすと、本当に池へ向かって歩き出した。カエムワセト達とすれ違いざま、くすんだ金髪を撫でてゆく。


「お前も随分汚いな、リラ。ちゃんと風呂に入れてもらえよ」


 笑って言うと、腰巻も襟飾りも外さぬまま池に飛び込んだ。水連の葉を一枚むんずと掴むと、それで身体を擦り始める。

 ネフェルタリは側室達に下がるよう指示した。

 側室達は名残惜しそうに池の中のファラオを見ていたが、正妃の言いつけには逆らえず、しぶしぶその場を後にした。


「お邪魔しちゃった」


 ラムセス二世に頭を撫でられた少女が、カエムワセトに向かって薄い微笑みを湛えて言った。


「久しぶりだね、リラ」


 いつの間にか自分達の後ろに佇んでいた十代前半の少女に、カエムワセトは微笑み返す。


 リラは、北方系民族の特徴を備えていた。瞳は緑柱石の如く澄んでおり、腰まで届く金糸の髪は実に見事であった。――が、ラムセス二世の指摘通り、全体的に煤けていた。頭のてっぺんからつま先まで、まんべんなく汚れている。カエムワセトの様に泥に突っ込んだというよりは、何日も服を着替えず風呂にも入っていないといった風体である。


 蠅が二匹、従者の様に金髪の周りを飛び回っていた。リラはそのうちの一匹を薄い笑みを崩さぬまま片手で掴むと、口の中に投げ入れ、もぐもぐと咀嚼した。


 カバを運んでいたファラオの従者達がそれを見て顔をしかめた。ネフェルタリの侍女二人も胸や口に手を当てて、こみ上げて来るものに耐える。


 もう一匹、と再び蠅を掴もうとした所で、カエムワセトがその細腕を掴んで止めさせた。阻止したのは蠅喰いではなく、侍女たちの嘔吐である。


「リラ。厨房に頼んで蜂蜜のケーキを焼いてもらおうか」


 好物を餌に、蠅から注意を逸らせた。リラは両目を大きく見開くと、何度も頷いた。


「ところでお前、どうやって入って来たんだ?」


 アーデスが訊ねた。

 その途端、ライラが両耳を塞いでしゃがみ込んだ。ライラは必死に会話を聞くまいとしている。それを見たネフェルタリが、「ライラの魔術恐怖症はまだ直らないのですか」と眉尻を下げた。


 魔術は怖くない、魔術師も怖くない。と呪文の如くブツブツ呟いているライラの横を滑る様な足取りで通り過ぎたリラは、板の上で横たわる雄カバの前で停止した。ゆっくりとした所作で屈むと、傷ついた灰色の体表を撫でるように掌を動かす。


「まだ怒りと恐怖が残ってる。死んだばかりだね……おいしそう」


 カバ肉の味を思い出しているのか、リラはうっとりと目を細めた。


 侍女二人が慌てて茂みに走って行った。結局、吐いた。

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