<27> カノン
ヴェルダンテ公王国の、とある港町。
「どうだい、今日は」
「いやあ、さっぱり釣れねえよ」
何もかも漆喰固めの、真っ白な街の埠頭にて。
仕事を引退した年頃の、二人の男が係船柱に腰掛けて、海に釣り糸を垂れていた。
いつもは心地よい潮風ばかりが吹き付ける埠頭だが、今は沖の方からほにかに抹茶のニオイがやってくる。
抹茶タンカーの沈没による高濃度抹茶汚染が広がり、魚は回遊ルートを変えて港に寄り着かず、たまに釣れるのは汚染を受けた抹茶ゾンビ魚ばかりだ。食えなくはないが、目玉やヒレが増えているから見た目が良くないし、噛み付かれたら自分も抹茶ゾンビになってしまうので取り扱いには注意を要する。
まあ、釣れるかどうかは結構どうでもいい。
釣り人たちは糸を垂れる時間が好きなのだ。
……と、ふいに、ずっと固まっていた竿の先がぴくりと動く。
「お?」
「おおおおお!
こいつは大物だ、手伝ってくれ!」
「よしきた!」
激しい引きではないが、極めて重い。
一瞬、根掛かりかと思ったほどの重量だが、獲物が動く手応えが竿を通じて伝わってくる!
二人の釣り人は力を合わせ、一本の釣り竿を引いた。
静かだった海面が波打ち、獲物の影が近づいてくる。
それが遂に水面を割って、顔を出す!
それは、ずぶ濡れの女だった。
「はああ!?」
細い、ヤシの木か何かの丸太にしがみ付いた、
さらに丸太の後部にはずぶ濡れで全身の毛がぺたんこになった奇妙な生き物がへばりついていた。
小型種の
二人がしがみ付く丸太に、釣り針はかかっていた。
「今って……何日?」
「あれから丁度半月です、ヒミカさん」
「もう終わってるわよね……お祭り……」
「終わってはいませんが、あと3日で王都に戻るのは……難しい、ですね」
据わった目をした女と、どこが目なのかも分からない有様のコボルトは、埠頭にのっそりと這い上がると、抹茶ゾンビのように重い足取りで街へと消えて行った。
後には、一直線の濡れた足跡が二組残るだけだ。
釣り人たちは呆然と、その背中を見送った。
「……………………どうだい、今日は」
「いやあ、さっぱり釣れねえよ」
二人の釣り人は仕切り直した。
* * *
平和節の時期、前半は各町や村でのお祝いもあるのだが、これは比較的早期に手じまいする。後半は各地域のハブとなるような大きな街や、各国の首都が祭を集約し、大騒ぎとなるのだ。
特に七王国の各王都は、世界一を競うように盛り上がる。
まして今年は、50年ぶりの勇者選定が行われるのだ。勇者が選定されるということは魔王の脅威が近づいているということでもあるのだが、人々は既に、魔王が打ち倒されることを確信していて、勇者が繁栄をもたらす未来が確定したものと、熱狂的な前祝いをしている。
ヴェルダンテ公王国、王都アルボトール。
『森の国』ヴェルダンテの王都だけあって、全体的に植物の数が多い。敷地が限られるはずの壁の中にさえ、自然に近い状態の公園を作る気合いの入れようだ。
そんな、普段は静かに佇むばかりの木々にさえ、滅茶苦茶な飾り付けがされ、七王国の旗が巻き付けられている。平和節の熱狂も、植物たちには良い迷惑かも知れない。
その街の、産業区画の入口辺りに、彼女は居を構えていた。
「と言うわけでこちら、私の友人というか、ある意味で腐れ縁のカノンさんです」
フワレがヒミカに紹介したのは、『セクシー』以外に適切な形容詞が何も思いつかない女だった。
桃色の髪をした彼女は、首から上は清楚で大人びた雰囲気だが、首から下は別の意味で大人だ。
身体に張り付くようなサイズの白衣は、ウエストの細さを際立たせ、それ以上に、バストとヒップの暴力性を際立たせていた。
「ワタクシ、このビキニアーマー研究所の所長、カノンと申します」
「ビキ……アマ?」
「偽名ですけどねぇン」
「だとしても問題そこじゃない」
近未来的で意識高そうな、真っ白い内装の応接間で、彼女はヒミカたちを出迎えた。
壁際に飾ってある金属パーツが、ヒミカにはまるでビキニのように見えたのだが、誠に遺憾ながらビキニで間違いなかったようだ。
「意外かも知れませんがぁ、実はワタクシ、サキュバスなんですぅ」
「むしろ見た目通りなんだけど」
言葉に混じる吐息すらエロティックだった。
「サキュバスって悪魔とかなんかそういうの、よね?」
「悪魔ではなく、魔族の一種ですね。
現在この世界に存在するサキュバスの約半数ほどが、魔族を裏切って人族に付いた者と、その子孫。ほとんどが公王国で暮らしています」
「イイ男には魔族も人族も関係無いものぉン」
魔族とは確か、魔物の中でも知恵あるものだ。
知恵がありすぎて魔王や魔物たちを裏切ってしまったというのなら、はて、知恵があるのも良いのか悪いのか。
魔物というと、ヒミカはこれまで恐ろしい生物兵器ばかり見てきたが、カノンは無闇やたらにセクシーなこと以外、実に真っ当な雰囲気だった。
「遠路はるばる、ようこそ公王国へ。
事情は伺いましたわン。大変な目に遭いましたのねぇ」
「はぁ、まぁ、本当に……」
「無人島で殺人ヤシガニ軍団と食うか食われるかの戦いをして、抹茶ドラゴンにイカダを削られながらの決死の脱出でしたからね……」
B級映画が三本撮れるくらいの大冒険だった。
幸いにも二人は、目当てにしていた公王国に辿り着き、こうしてカノンに会えた。不幸にも、それには時間が掛かった。
平和節のお祭りは、正式にはあと2日で終わる。このアルボトールからセラニア王国まで、国を跨ぐレベルの超超超距離
つまり多くの国民が王都に集まっている前で、ヒミカをお披露目する機会は、事実上、もう無いようなものだ。
「予定通りに到着していれば、どうにか王都に帰るため、カノンさんの力を借りられないかと思っていたのですが」
「フワレてゃん、ちょっといいかしらン?」
カノンの視線は常に悩ましげで、しかし、今は抜き身の剣のように鋭く冷たい。
「ワタクシ、無茶だと思いますわよ?
仮に間に合うとしても、お二人をお止め致しましたわ」
「どうして……」
カノンが、ヒミカの方を向いた。
瞬間、ヒミカは視線だけで裸に剥かれ、無防備にされたような心地になった。
「『人前に出れば人気者になれるはず』なんて、甘えた考えで立てた計画を信用できないからですわン」
「……!!」
さらりと言われて、息が止まった。
ヒミカは直感した。これはプロの意見だと。
彼女にしてみれば当たり前のことを、当たり前に指摘しただけなのだ。
「あなたは確かに抜きん出た美しさをお持ちですわ。
ですが、人というものが、一見の美しさによって受ける影響は限定的ですのよ。
いくつもの情報が積み重なることで初めて、本当の美しさ、本当の魅力を感じるものですわン」
「……カノンさんは、美しくなりたい貴婦人方の相談を受けるご商売なんです。
人間には無い技術を色々と持ってますんで」
「ビキニアーマーは?」
「それは副業みたいなもので……いや、どっちが副業なのかな……」
フワレの補足に、ヒミカはなるほどと思う。
仮にも魔物だ。人の世界に受け入れられるには、上流階級に取り入るのが最善だろう。
そういう者が一人(一匹?)でも居れば、他のサキュバスが受け入れられる端緒にもなる。
カノンは部屋の隅の魔動冷蔵庫から、二本のワインボトルを取り出した。
どちらも同じ色の液体が入っているが、片方にはブドウ園の光景を描いたラベルが貼られ、もう片方はつるつるのすっぴん状態だ。
「ワタクシがよく使うたとえ話なのですけれど、どちらのワインが美味しそうだと思いますかしら?」
カノンは二本のボトルから、それぞれワインをショットグラスに注ぐ。
「……分かりました。中身は同じなんでしょ、それ」
「ご・名・察」
二つのグラスだけを見れば、中身全く同じ液体だ。
だが、カノンがボトルを置いた瞬間、ラベル付きのボトルの前のグラスは、輝きを増したように感じた。
ヒミカも覚えがある。
飲みかけのペットボトルスポーツドリンクからラベルを剥がして捨てたら、残った中身が急に不味そうに思えてきたことがあった。スポーツドリンクのラベルなど、何百本も見てきて今更気にも留めず、頭の中でただの記号と化していたのに。
「ヒミカさん。あなたはまだ『ラベルを貼っていないワイン』ですわ。
どんなに自分を磨いても、それで惚れ込んでくれるのはソムリエだけ。
別に悪いことではありませんのよ? 確かにあなたは美しい。ですが、手を尽くさぬまま大衆を酔わせようだなんて、傲慢な手抜かりだとは思いませんこと?」
ヒミカは悔いるあまり、ほぞを噛んだ。
それは己のふがいなさへの怒りであった。
「何もかも……徹頭徹尾、その通りだわ!」
ヒミカはかつて地球に生きていた頃、ギリギリ食えない程度のダイエット配信者だった。
長く苦しいダイエットをヒミカは完遂し、そして、そこで終わった。
本気のダイエットは辛い。
それこそダイエット中は、生活の全てを捧げるくらいの覚悟が必要で、しかも一朝一夕には終わらないのだ。とにかく辛い。
だから、それを完遂したときには、『やり切った』と思った。満たされていた。
それで全てが上手くいくのだと、思い込んでしまった。
「でも、それじゃ、どうすれば良いのよ、私はっ……!」
ダイエットのやり方は分かる。
その先は、まだ知らない。
姉の言葉をもっと真剣に聞いておけば良かったとヒミカは後悔した。彼女は
ヒミカ一人の話なら構うまい。だが、事はもはやヒミカの生き死にだけではない。
このままセラニア王国を放っておけるだろうか。かの邪知暴虐の王の陰謀を、ヒミカには止める手立てがあるし、止めねばならぬ。
アンジェリカの無念はどうなる。フワレの命は、彼の背負うもふもふ同胞たちはどうなる。
落胆するヒミカを見て、カノンは優しく微笑む。
「戦も政治も、ワタクシの専門外ですけれど……
魅せ方だけは教えられますし、協力できますわよン」
思わずヒミカは、『お姉様』と呼んでしまいそうになった。
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