〈6〉 ②
歩はリナに導かれて、彼女の大きなバイクの座席にまたがります。
座席シートの後部には銀色のバーがツバメの尾のように高々と生えていていました。背もたれにしては角度が甘いので、飾りなのでしょう。
ヒロムがスタータを踏み込み、エンジンを始動させました。アクセルを開けるに応じて耳障りな甲高い異音が迸ります。
それを合図にリナのバイクが、周囲のスクータが次々と生き返ります。
歩はさなえを探します。ふたり乗りをしているスクータや、シートの後ろに旗を立てているスクータなどの間に、赤と白に塗装されたそれを見つけます。誰も乗っていません。
あれ? と思ったとき、喫茶店からさなえが駆け出して来ました。手にはピンク色のハーフキャップ型ヘルメットを持っています。
「歩、面バレするからコレ着けとけ」
黒地に大きく「鬼」と金の刺繍が施されたマスクでした。
さなえの指が歩の髪をかき分けてマスクを着けてくれます。大きすぎるせいで鼻の下までずり下がりました。はは、と笑ってさなえはピンクのヘルメットを頭に載せてくれます。ぶかぶかのヘルメットの縁が鼻筋に当たりました。
手でヘルメットを押し上げて、周囲のみんなを見回します。誰もヘルメットなど被っていません。マスクをしている人はちらほらいます。
「じゃあな」
さなえはヘルメットの上から歩の頭を軽く叩いて、身を翻します。赤と白のスクータに座ってエンジンをかけるようです。
咄嗟に飛び降りました。「歩ちゃん?」とリナが呼び止めるのも聞かず、さなえのスクータに駆け寄ります。
「どした?」と驚いた様子のさなえの背をつかんで、座席の後ろによじ登ります。
「リナ姉のほうが安全だぞ?
確かにスクータのシートは狭くて、油断するとお尻が落ちそうになります。それでも歩はさなえの背にしがみつきます。
「しゃあないなぁ」嘆息したさなえは、どこか嬉しそうでした。「落ちるなよ」
さなえは歩の手をとって、パンツのベルトを握らせます。ぐっと歩の手の甲を押さえて「絶対離すなや」と念押ししてから、アクセルを開けました。
福留が運転するセドリックよりよほど滑らかな発進です。
駐車場から出たさなえたちはセンターラインも関係なく対向車線にはみ出して、巨大な集団になります。
真ん中に、ヒロムとリナが陣取っていました。
誰もが小刻みにアクセルを開けて、ヒステリックにエンジン音を響かせています。そのくせ向かい風の中を走る自転車くらい速度しか出ていません。太った生き物が絶命間際の悲鳴を上げてのたうち回っているかのようでした。
さなえは集団の後方にバイクをつけます。迷惑そうに追い抜きをかけてくる一般車の前を塞いで、集団が分断されないようにしているようでした。同じ役割のスクータが他にも二台ほどいます。
するすると集団を割って、リナの大きくて派手なバイクが下がって来ます。長い三つ編みを振って、リナがさなえを手招きます。一緒に集団の中心部へ行こう、と誘われているのです。
集団に吸い込まれるとバイクの排気音やエンジン音以外、なにも聞こえなくなりました。雷のただ中に突っ込んだようです。
しばらくすると、喧噪を割ってクラクションが届き始めました。
一般の後続車が増えてきたのです。対向車線にはみ出したスクータに対する警告も雑じっているでしょう。
それなのに、誰も気にする様子がありません。ひとかたまりとなって赤信号の交差点にも臆することなく突っ込んでいきます。青信号側の車線の前で、スクータがぐるぐると円を描いているのが見えました。
夕暮れ時の熟れた太陽、気の早い一般車両の前照灯、赤信号、周囲ではためく藤色のコートの裾。眩暈を覚えるほどでした。
気がつくとクラクションとエンジン音に、サイレンが加わっていました。首を捻ると赤色灯の明滅が視界を奪っていきます。
パトカーの追跡が始まったのです。
さなえのベルトを握る手に汗が滲みました。
逮捕されて母を悲しませる未来が、今さら現実味を帯びてきます。母に見捨てられる恐怖が歩の四肢を冷やしていきます。
不意に歩の手が温かくなりました。さなえの掌です。宥めるように歩の手を握ると、さなえは顔の半分で背後を振り返ります。
つられて後ろを見ると、パトカーとの距離は変わっていませんでした。それどころか距離が開いているようにも思えます。最後尾のスクータが速度を落としているのです。対照的にヒロムやリナは速度を上げていきます。
さなえも加速し、細い一本道へと急ハンドルを切りました。危うく振り落とされそうになって、必死でしがみつきます。
どこをどう走ったのか、さなえのバイクは一台きりになっていました。
「はぐれたの?」歩は怒鳴ります。
「捲いたんだよ!」さなえの声は、しがみついた背から直接聞こえました。「あとで合流するから大丈夫だよ」
集団でトロトロと走っていたときとは違い、心地よく冷えた甘い風が吹き付けます。
さなえの運転は荒々しくて、胸が躍りました。後輪が捉える路面の凹凸すら歩を興奮させます。集団走行のなにが楽しいのかはわかりませんでしたが、さなえの後ろに座ってふたりきりで走るのは好きだと感じました。
ずっとこうしていたい、と思ったのに、楽しい時間は直ぐに終るのです。
さなえは小さなアパートの駐輪場にスクータを停めました。今にも崩れ落ちそうな鉄階段の下には、ゴミ捨て場から拾ってきたのかと思うような埃っぽくひしゃげた自転車ばかりが並んでいます。
歩の頭から外したヘルメットをスクータに吊すと、さなえは「坊ちゃんめいてるな」と笑って歩の髪を整えてくれました。自分の状態がわからず、歩はさなえにされるがままです。
「姉さんたちのトコに戻るぞ」
さなえが手を差し伸べます。掌が重なりました。疲労感で覚束ない腕を、さなえがしっかりと捕まえてくれます。
紫色に沈んだ空の下を、ふたりで歩きます。未練がましいパトカーのサイレンが遠くで鳴っていました。
ふたりは静かに住宅街を抜けます。まるで家に帰る姉妹のようでした。
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