〈6〉

〈6〉 ①

 福留が車を停めたのは、広い駐車場のわりにこぢんまりとした喫茶店でした。

 コーヒーカップを模した看板が出ているにもかかわらず、停められているのは派手に装飾された大きなバイクとスクータばかりで、車は福留の一台きりです。

 その中に、赤と白で塗られたスクータがありました。

 歩は車から飛び出します。喫茶店の重たい扉を両手で引き明けます。

 暗い店内でした。煙草の煙が、朝靄のように視界を遮ります。何人もの女の人が一斉に歩を振り返りましたが、暗すぎて顔の造作が判別できません。

「なんやガキ」と凄む声に雑じって、「歩ちゃん?」とリナの声がしました。

 次の瞬間、店内の全員が立ち上がりました。「おっす」と大きなかけ声とともに頭を下げます。

 歩に対する挨拶ではありません。歩の背後に立つ、福留に向けられたものでした。

「ああ」と福留が面倒くさそうに片手を振ります。「今日はそーゆーんやないから。挨拶も要らん」

 言う端から、店内の女の人たちが慌ただしく奥のソファーに散らばっていた雑誌や菓子袋を片付け始めます。

 すぐに、福留と歩は奥のソファーに案内されます。

 喫茶店のくせに缶ビールが出されました。歩の前にまで缶ビールが置かれます。汗をかいていないところを見るに、常温で置かれていたものでしょう。

 福留と並んでソファーに座り、ランドセルを膝に抱えます。先生に見咎められたステッカーを指で辿ります。

 店にいる女の人たちはみんな、紫色のコートを羽織っていました。さなえが歩むの小学校にスクータを乗り付けたときと同じコートです。コートの下の上半身は胸にサラシを巻いただけでした。それぞれのコートの二の腕や背中、裾に艶やかな刺繍が施されています。

 ヒロムとリナが床に膝をついて歩と視線の高さを合せました。コートの裾が床に広がります。「喧嘩上等」「華に嵐」という金刺繍が見えました。

「来てくれて嬉しいわ」とリナが長い三つ編を肩に払いながら笑います。「今日、集会だってきいたの?」

 歩は首を振って「さなえちゃんに会いに来たの」と告げます。

「今、買い出しに行ってるけど、すぐに戻ると思うわ」

「ヒロムさんもリナさんも、友達、だよね?」

 ふっ、とふたりともが息を漏らしました。

「友達……」とヒロムがオウム返しに呟きます。

「友達よ」とリナが優しく断言します。「ヒロムは照れ屋だから言わないだけで、ちゃんと、みんな、友達よ」

 目にしみる煙草の臭いの中に、油性マジックの臭いが漂っていました。少し気分が悪くなる臭いです。

「どうしたの?」とリナの手が歩に、ランドセルに貼られたステッカーを触る指に、触れます。

 直後、店を濁す紫煙が揺れました。扉が開いたのです。外から差し込む光で、コートを羽織った人影がかき消されそうなほど細っています。

「歩?」とさなえの声が光の中から届きます。ビニル袋をカウンターの中の女の人に渡して、さなえが小走りに近づいてきます。

「どした? ここ、教えたことあったか?」

「福留に連れてきてもらって」

「ああ」とさなえは福留を一瞥して頷きます。頭を下げたのかもしれません。「で、どした? なんかあったか?」

 クラスメイトが歩の下校ルートを告発したこと、先生がさなえを友達ではないと言ったこと、ステッカーを剥がせと言われたこと。どれからどう話したものかと混乱する歩の隣で、福留が煙草を咥えました。

 歩から視線外さないまま、さなえはパンツのポケットからライターを取り出します。福留の鼻先にライターの火を近づけます。

 当たり前の顔で火をもらった福留はお礼も言わず、ぽう、と天井に向けて紫煙を吐きました。

「……福留、お父さんみたい」

「え、社長? 似てたか?」

「うん」

 お礼も言わない態度が、とは言いません。

 福留は嬉しそうに片頬を歪めます。父に似た表情でした。意図的に歩の父を真似ているのだろうとわかる顔でした。

 歩はソファーから立ち上がり、福留から距離をとります。「煙たい」と嘘を吐いて、さなえを店の外に誘います。

「お父さんに連絡しときますんで」福留が咥え煙草で立ち上がり、カウンターの上に鎮座するピンク色の公衆電話に手をかけました。「ゆっくり話して来て大丈夫ですよ」

「お母さんにも、伝わる?」

「じゃあ、伝わらないように、社長にお願いしときましょう」

「うん」と頷いて、歩は重たい扉を押し開けて店を出ます。

 夕日が世界を焼こうとしていました。夏を前にした甘い空気を吸います。鼻の奥にくすぶる煙草の臭い、前頭葉にわだかまるシンナーの刺激臭、埃と黴の臭い。狭い喫茶店に過剰なほど詰め込まれていた臭いが洗われていくのを感じます。

「福留は」と歩は振り返らずに言います。「いつも、みんなの前ではあんなに偉そうなの?」

「一番年上だし」さなえが煙草を咥えます。「流星の元総長だし、社長のお気に入りオキニだし……あいつ、ロクさんと一緒にあのビルに住んでんだぜ。部屋住み舎弟っての? そのうち盃もらうんだろ」

 ロクさん、と歩は苦々しくその名を噛みつぶします。歩をサイの角と言った老人の、薄汚れたジャケットを思い出します。

 あの男と福留が一緒に、それも父のビルに住んでいるという絵図がうまく想像できません。瞬きの間に、想像上の六堂と福留の間に父が入りました。祖父と父と息子、という単語が浮かびます。

 力一杯、歩は自分の妄想を踏み潰します。力加減を誤ったのか足の裏が痺れてきました。

「どしたぁ?」とのんびりとした語調で、そのくせ少しも笑わず、さなえが歩の手を取りました。掌をすりあわせて互いの指をこじ開けて、手をつなぎます。

 ひんやりとした皮膚の隙間で、ふたりの苛立ちがチリチリと発火しています。煙草の火のように息づいています。

 お互いが、なにかへの憎悪を孕んでいました。言葉にするまでもなく、その焦点が絞られていきます。同じ相手を疎ましく感じていることがわかりました。

 歩はわざとゆっくり、穏やかに息を継ぎます。

「流星の元総長って、なに?」

「流星ってチームがあるんだ。そこの一番偉い人だったってこと」

「チーム?」

「暴走族」

「さなえちゃんたちも暴走族なの?」

「レディースだよ。女ばっかりの、男に負けないチームだ。歩も入るか?」

「入る」と言いかけた呼吸を、濁します。

「リーダーは、さなえちゃん?」

 はは、とさなえがわざとらしい笑い声を立てました。

 振り返ると、小さな喫茶店から女の人たちがぞろぞろと出てくるところです。みんなお揃いの紫色のコートを羽織っています。桜と藤の花が咲き乱れています。

 さなえが歩の手を離して、集団に呑まれていきます。

 リナが手招きをして、歩を誘います。その肩口に「副総長」と書かれていました。大きなバイクにまたがったヒロムの肩には「総長」の字がありました。

 あのふたりが、リーダーなのです。

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