3話 旅行

 菅井は、岡田を横に乗せ、静謐な夜道を車で滑るように進んでいた。ときおり岡田が髪をかき上げる仕草を、菅井は視線で捉えていた。外から見れば、彼らは恋人同士のように映るかもしれない。しかし、車内には音楽もラジオも流れず、会話も途切れ途切れの静寂が支配していた。それは、どんなに言葉を尽くしても、恋愛関係と誤解されることはないだろう。


「あの青い壁のアパート」


 岡田の声は、周囲の無音を切り裂くように鮮明に響いた。

 

 

———さかのぼること40分前。


 菅井は自宅のマンションでYouTubeを眺めながら時間を潰していた。画面右上の時計を見て、そろそろ約束の時間が近づいていることに気づいた。


 岡田から昼前に届いたメッセージ。


「吉野、今日はシフトに入っているはずなのに来ていないの。私からも、会社からも連絡がつかないの。何か聞いてない?」


 休日をゆったり過ごす予定だった菅井は、そのメッセージを読んでからというもの、不穏な気持ちに駆られていた。吉野がただ寝過ごしているのか、病気になったのか、あるいは無断で退職したのか。思い巡らせれば様々な可能性が浮かぶが、菅井の心には一抹の不安が引っかかっていた。

 

 その異変に気づいたのは、吉野が冗談半分にイタズラ電話をかけた後のことだった。スマートフォンを操作している吉野から、血の気が引いていくように見えた。

 

 しかし、それだけだった。冷静に考えれば、そんなことで怖がるのは子どもだけだ。確かに、吉野には子どもっぽい面があると言えばあるが。

 

 

 岡田も岡田で、過剰に焦っていると菅井は思う。大したことはないだろうと自らに言い聞かせる。しかし、何かが起きていたとしたら、自分が飲み会に誘ったことが原因だったのではないかと思うと、奇妙な罪悪感に苛まれる。

 

 

「おつかれさま。良かったら吉野の家に行ってみる?行くなら、仕事終わりそうな時間に車で拾うけど?」



 岡田からの返事は10秒も経たずに届いた。行きます、とだけ。念のため、吉野にもメッセージを送ったが、既読にすらならなかった。


 何もする気になれず、菅井は岡田の退社時間が近づくまでYouTubeで時間を潰した後、出発した。

 

 

 

—――菅井は吉野のアパートと思われる建物の前で車を停めた。年季の入った建物を眺めていると、吉野がそこに住んでいるとは思えなかった。一般的に女の子はもっと綺麗なマンションに住みたがるものではないかと疑問に思う。


 岡田は助手席から降り、スマートフォンを手に201号室へと向かった。菅井もだが岡田も同様に、初めて吉野の住居を訪れることになった。住所は会社の人事部から確認したものである。菅井は会社の個人情報の扱いについて疑問を抱きつつ、岡田の後を追った。

 

 

 階段を上って2階にある201号室の前に立つ岡田を発見した菅井は、隣に立ち、「インターホン、押してみたの?」と尋ねた。

 

 

「いや、今から押すところ」


 もしかしたら、吉野は体調を崩して寝込んでいるかもしれない。そうだとしたら、心配かけないでくれと一言、注意してやろうと思う。

 

 岡田がそっとチャイムを押した。チャイムの音だけが響くが、他には何の音も聞こえない。中で動きはなさそうだ。

 

「いないね」


 菅井が言い、もう一度チャイムを押す。しかし、状況は変わらない。

 

 

「飛んだんじゃない?なんか、仕事もダルいって言ってたし—」



 菅井の言葉に反応することなく、岡田は無言で201号室の玄関に立つ。

 

 

 ドンドンドンドン!

 

 

 突然、岡田は大きな音でノックを始めた。

 


「吉野ちゃん!いるの!?いないの!?」


「ちょ、ちょっと音が大きいって!取り立てレベルだって」


 菅井が注意するが、岡田は構わずノックを続ける。その時、隣の202号室の扉が開いた。

「あの、どうしたんですか?」


 202号室から出てきた20代前半の男性が尋ねた。スウェット姿で、眠たそうな目をしている。


「いや、この部屋に住んでいる人の友人なんですけど、急に連絡が取れなくなっちゃって」


 菅井が間柄を簡単に説明すると、男性は「ああ」と納得した様子を見せた。

 

 

「旅行に行ったんじゃないんですか?」


「何か知ってるんですか?」

 直ぐに食いついたのは岡田だった。



「僕、夜中は居酒屋でバイトしてるんですけど。バイトへ行く時間、えーと、21時30分頃に、201号室の女の人が大きなバッグを持って出ていくの見ましたよ」


「・・・旅行」

「いや、旅行かどうかは知らないですけど。大きなバッグ持ってたから旅行かなって」


 この男性によると、吉野は21時30分ごろに大きなバッグを持って外出していた。飲み会が終わってからすぐに出かけたことになる。


ありがとうございました。と菅井が言い、男性はあくびをしながら部屋に戻った。菅井と岡田も諦めるように車に戻る。


「旅行行くなら連絡しろっての。な?」


冗談まじりに言うが、岡田からは反応がない。菅井は、虚しくバックミラーを確認しながら、交通の邪魔になっていないかを確認した。。



「違うと思う」


 え?恐ろしく間抜けな声が出てしまった。

「旅行じゃないよ。だってそんなこと言ってなかったし」


 菅井は昨日のことを思い出す。飲みの席でも旅行の話は出ていなかった。予定があるなら、わざわざ飲み会に来るはずもない。

 

「でも、突然の用事だったとかもありえるじゃん

 うん。それなら誰にだってありえる。むしろ急すぎて、会社への連絡も怠ってしまったのかも知れない。普段はこんな楽観視するタイプでもないのだが、目の前の岡田が異様に心配しているので、つい逆の立場で意見してしまっていた。

 

「・・・そうですね」


 それから岡田とは一言も喋らなかった。吉野が本当に旅行に行ったのかはわからないが、少なくとも怪奇現象的なことではないことに安堵する。荷物を持っていたということを聞いて、そんな馬鹿らしいことはないと思う。

 

 

「岡田が心配してるぞ。早く連絡してやれ!」


 菅井は吉野にメッセージを送った。昼前に贈ったメッセージは相変わらず既読の表示はついていなかった。

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遠因近因 むろたに しずか @kadaksyou

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