第6話 午後の薬局

*** 


 午後三時の薬局は空いていた。

 風が強く肌寒い日だった。空には暗い色の雲がたちこめている。


 駅前の古い薬局に客は私しかいなかった。処方箋と薬の手帳を、古びたレジの横に置かれたプラスチックのかごに入れようとしたら、白衣の薬剤師が直接受け取ってくれた。


 薬剤師の手元には、作りかけの折り紙があった。この薬局では、子どもが来ると、籠にいれた折り紙をあげている。その在庫を補充していたらしい。小さなパーツを組み合わせて、くす玉のようなものができかけていた。


 午後休をもらって、病院に行って来た。睡眠導入剤がなくなってしまったのだ。


 二週間前、雪間さんに会った日の夜は昏昏こんこんと眠れた。朝まで一度も起きずに眠れたのは、本当に久しぶりだった。

 やっと不眠症が改善したと感激したのだが、その日の夜には、また元の状態に戻っていた。枕に頭を埋めて、心底、がっかりした。

 なぜ、あの日だけ熟睡できたのかは分からない。むしろ、ストレスの折れ線グラフがあったら、過去最高値を記録していそうな日だったのだが。

 

 雪間さんとは音信不通だ。もし会うことがあったら謝りたいが、向こうは二度と会いたくないと思っていることだろう。


 椅子のわきにあるカラーボックスには、どれくらい前からここにあるのかと思わせるほど、ぼろぼろになった本が入っている。いつも途中までしか読めない、古い少女漫画を手に取った時、新しい客が入ってきた。


 シャツを着た若い男性だった。どこかで見たことがあるような気がして、後ろ姿をぼんやりと目で追う。処方箋をかごに入れて振り返った彼は、


「……あ」


と、陰気な表情でつぶやいた。


 雪間さんだった。


「……どうも」


 雪間さんは軽く会釈した。知らないふりをされるかと思ったのに、意外だった。

 会社帰りなのか、シャツとグレーのスラックス姿で、黒いビジネスバッグを斜め掛けにしていた。


「ほ、本日はお日柄もよく……」


「え?」


 違った。動揺のあまりよく分からないことを口走ってしまった。


「この前は大変失礼をしまして、本当に、あの、かなり申し訳なかったです……」


 緊張で声は上ずり、不自然な敬語になってしまった。


「こんなところで、一体何をしているんですか」


 雪間さんは不快なものを見たような顔で、私をきつく睨んた。

 むっとして、私は読もうとしていた漫画を脇に置いた。

 ぶしつけな態度で優位に立とうとする人間はいるが、その類なのかもしれない。だとすれば、毅然としておいた方がいい。


「薬局で、薬ができるのを待ってる以外に、何があるって言うんですか」


「不眠の薬ですか? 大丈夫ですか」


 間髪入れない返事と親身な口調に、意表を突かれた。雪間さんは、言葉を失う私の隣に腰掛けた。


「草野さんも大変ですね」


「はあ、まあ……もう慣れましたけどね」


 空笑いで強がりを口にしながら、整った繊細そうな横顔を眺める。私が眠れないと言っていたことを、彼が覚えていたのも意外だった。


「雪間さんは、どうしたんですか?」


「のどをやられて、咳が止まらないんです。会社の上司に、病院に行くよう言われました」


 言われてみれば呼吸が荒く、目も赤い。さっき目つきが悪く、口調がぞんざいだったのは、体調が悪かったからのようだ。目と目が合ったら戦うポケモントレーナーのような心境だった、自分の早とちりを反省する。


「優しい上司ですね」


「どうでしょうか。休みを申請したんですが、納期の近い仕事があるから駄目だと言われました。病院行っていいから、薬をもらって働けと。これから会社に戻ります」


「えっ、ひどい」


 詳しく話を聞くと、雪間さんの職場はこの近くだった。グループ会社があり、そこに本社からの応援として派遣されているのだという。

 私と彼は、会社の最寄り駅が同じだった。普通なら最初に分かりそうなことだが、この前は話題がそういう一般的なことに及ばなかった。


 雪間さんは背中を丸め、苦しそうに乾いた咳をした。


「無理しない方がいいですよ。休ませてもらった方がいいですって」


「上司は、熱がないなら大丈夫だと」


「これから出ますよ、絶対。戻って残業するんでしょう。他の人はいないんですか?」


「いますが、僕がいないと多分終わりません」


 きっぱりと言った雪間さんは、驕っているというよりも、むしろうんざりとした様子だった。


「雪間さんの職場、ブラックじゃないですか? 特にその上司、ひどいですよ。前も思ったけど」


「そうでしょうか」


 だるそうに壁にもたれた雪間さんは、ぼんやりとしていた。顔が赤いような気がする。


 私の名前が呼ばれた。薬をもらって会計をすませた後、雪間さんのそばに戻る。


「どうにかして帰れないんですか?」


「無理だと思います。重要なプロジェクトであることは確かなので」


 薬剤師が雪間さんを呼んだ。


 薬の入った白いナイロン袋を持った雪間さんと、一緒に薬局を出た。強い風が、向かいにある床屋の看板を揺らしていた。

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