第44話 初めての夜

 俯かせていた顔をそっと持ち上げた。綺麗な顔がそこにあり、熱いまなざしを感じた。そしてそのまま、彼の顔が私に近づく。


 目を閉じたと同時に、柔らかな感触を唇に感じた。体中から幸福感があふれてきて、泣いてしまいそうになった。


 三田さんの失恋で落ち込んでいた私をずっと支えてくれた透哉さんが、私をそれほど好いていてくれたなんて。


 好きな人が、自分を好きでいてくれる。自分の味方でいてくれる。それが、これほど嬉しいことだとは。


 優しいキスがあって彼が離れた後、私の顔はかなり熱くなっていた。恐らく真っ赤だっただろう。そんな私を見て、透哉さんが小声で言う。


「なにその可愛い顔」


「い、いや、こうなるなんて、思ってもなくて、嬉しいけどでも恥ずかしくって」


「俺も恥ずかしいよ」


「全然そんな風に見えません! 透哉さんはいつも通り涼しい顔して、かっこよくて」


「そう見えてるのかあ」


 少し笑った彼は、私の返答を聞かずにもう一度口づけた。さっきよりもやや強引なキスだった。


 角度を変えつつ、そのまま何度も繰り返されながら、ゆっくり後ろに倒れていく。私の頭を彼の大きな手が支えられているのをぼんやり感じていた。そして、背中が床についたところで、一度顔が離れる。


 ああ、もう、もっと顔が熱くなってしまった。


 黒髪を垂らした透哉さんが、普段と違う顔に見える。


「……こういうこと、興味ない人だと思ってたから……頭が、ついていけないです」


「俺ね、伊織のせいで、絶食系から進化したの」


「進化?」


「『好きなものしか食べたくない』系」


「なんですかそ」


 言いかけているうちに、再度口を塞がれた。息すら出来なくなりそうなキスの嵐に、頭の中は真っ白だった。彼の手が私の鎖骨を優しくなでたところで、頭がパンクした。私はほんの少しの隙を見て、彼の肩を強く押しのける。


「あの! さ、さっきも言いましたが……たくさん走って汗もかいたのでっ、ちょっと待ってください! こ、心が付いていけてなくてっ」


 この流れは、非常にまずい。いや、流れ自体が嫌なわけじゃない。でも準備というものがある。こんな展開は完全に予想外なので、心の準備も何もできていない。


 私が焦ってそう言ったのを聞いて、透哉さんがなぜか小さく笑った。ゆっくり離れつつ、私に謝る。


「ごめんごめん、我を失ってた。今日泊まって行ってもいい?」


「え!? あ、は、はい、何の準備もないですしお構いできませんがっ」


「大丈夫、ちょっと冷静になったから。ごめん、がっつきすぎてる。伊織の事大事だから、今日は何もしない。確かに急だったから、伊織も心の準備がいるだろうし。ただもうちょっと一緒にいたくなっただけ」


「え……」


 透哉さんが私の顔を覗き込む。


「手を繋いで寝たい。それだけ」


「……寝れますか?」


「多分寝れない。でも、それでいい。幸せな苦悩だから」


 はにかむ彼の白い歯が眩しい。嬉しくて私は強く頷いた。


 好きな人と手を繋いで寝る、それがいかに幸せなことか、分かっているからだ。




 それから深夜のコンビニに二人で手を繋いで行き、帰ってきてからシャワーを浴びた後、狭いベッドに入った。


 透哉さんは言っていた通り私としっかり手を繋いだ。たったそれだけのことで、私も眠るのが困難なほどときめき、胸が苦しくなってしまった。


 誰かのぬくもりが隣にある夜は、これほどまでに私の心を沸騰させる。





 目元が何やらくすぐったく感じた。瞼がぴくぴくと動く。


 違和感に耐えられずついに目を開けると、すぐ前に整った顔がこちらを見ていたので驚いた。小さく悲鳴を上げてしまったくらいだ。昨日透哉さんが泊って行ったのだとすぐに思い出した。


「あはは! まるでお化けでもみたような驚き方」


 彼はそう笑う。


「ね、寝起きにすぐ透哉さんがいたらびっくりしちゃいます! 起きてたんですか」


「うん、伊織を起こしたんだ。まだ早いから眠いだろうにごめん」


「あ、目がくすぐったかったの、透哉さんですか?」


「そうそう。まつ毛をそっと触ると、人間って絶対起きるんだってさ。まだ伊織の寝顔を見ていたかったんだけど、ちょっと早く起きたくてね」


 私の寝顔を見ていた、という点に追及したかった。ずっと見ていたっていうこと? 私は爆睡していたのですが。


 透哉さんが上半身を起こす。ちらりと時計を見てみると、まだ七時だった。昨日は寝るのもかなり遅かったので、強い眠気が残っている。


「昨日は遅かったし怒涛の展開で忘れてたんだけど、伊織の携帯を早く止めなきゃと思って。まだ手続きしてないんでしょ?」


「あ!」


 私も慌てて起き上がる。そうだ、私のスマホは結局戻ってきていない。透哉さんは考えるように言う。


「森さんが持ってるみたいだし、操作してるってことはロック解除も出来る状態。かなり危険だ。すぐに止めて、まずは警察に盗難届を出そう。あの子がライン以外のものを悪用しないと願うしかないね」


「……なんとなくですけど、森さんはそのほかの悪用はしない気がします」


「ええ?」


「あの子を信じてるから、とかじゃないです。ただ、とにかく私と透哉さんを別れさせるのに必死で、そのほか何かをしようなんて考えまで及んでないと思って」


 スマホ決済で買い物をするとか、個人情報を売るとか、多分そういうことはしない気がする。

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