第二章3 料理の味


 今は怪我を最優先にという名のもとの、三日間の絶対安静。それを義務として言い付けられ、積もる話は沢山あるものの、話し合いは一時保留という形に。


 保留に際し、室内には先と比べてやや静かな空気が訪れる。シェーレやレルは、休養が主となるラルズの邪魔にならないようにと、室内を後に。


 レルは若干名残惜しそうに扉前でラルズに視線を飛ばしていたが、最終的にシェーレに連れ去られるようにして室内から退出していった。


 ・・本来であれば、ミスウェルも二人に続いて室内を後にする流れだったのだが、そうとはならなかった。それは――、


「うぅ、恥ずかしい……っ」


 右手を自らのお腹に添え、先の現象にため息をつくラルズ。頬には恥じらいという名の熱が灯され、平時よりも頬の赤みが増していた。


 椅子から立ち上がり、室内を出ようとしたミスウェルに届く、ラルズのお腹の音。命繋がった確かな安心感からか、永い眠りについていた反動か。恐らく、前者も後者も妥当且つ、生理現象と呼ばれる一環。


 肉体が食事を求める声。立ち去ろうとしたミスウェルに届いてしまい、苦笑いをされながら気を遣われた図が頭の中で反芻される。目覚めたばかりで、何でも頼ってくれて構わないという、ミスウェルの言動に即座に甘える形となった、ラルズからの第一声。


「助けてもらったばかりなのに、食事の斡旋まで催促して、厚かましすぎる……」


 命を救っていただいた大恩ある人物に、何とも図々しい。そんな申し訳ない思いとは裏腹に、お腹は主張を続けるのだから質が悪い。


 退こうとしたミスウェルに、「食事の用意をするから、少しだけ待っていてね」と優しい声音で言われ、ラルズは悶えながらも寝台の上で食事を待っている姿勢だ。


 ミスウェルがラルズに大恩を預かっており、褒美や願いとして食事を所望した――という図ならば、百歩譲って納得はするだろう。が、構図が完全に逆である。


 ラルズはミスウェルに返しきれない大恩を預かっているというのに、あまつさえ食事まで遠巻きに要求してしまう始末。何とも罰が悪く、己の無礼で無知な浅ましさが嫌いになりそうだ。


「・・だってのに、まだお腹は鳴るんだもんなぁ。とほほ……」


 罪滅ぼし、懺悔と称して口に出して反省を試みるも、そんなこと知ったことかと言わんばかりに、お腹は次々に合唱を続ける。空きっ腹のお腹に食事を送れと、食欲が絶えずラルズを攻撃してくる。


 お腹の音と格闘しながら、待つこと数十分。やがて――、


「――ラルズ君、入って大丈夫かい?」


 ノックの音に続き、ミスウェルの声が室内に響いた。


「は、はいっ。大丈夫です」


 応答し、扉がガチャリと開かれる。開かれた先、そこにはノックの主であろうミスウェルと、もう一人の男性の姿が。


 ミスウェルが先に室内へと入り、もう一人の男性が「失礼致します」と丁寧に一礼し、銀色の台座を押して後に続く。銀色の台座の上には、ラルズのために準備してくれたであろう料理の数々が並べられていた。


 配膳台の上に座する料理が近付くにつれ、美味しそうな香りがラルズの鼻孔を刺激し、気付けばラルズは唾をごくりと呑み込んでいた。


「待たせてしまって済まないね」


「そんな、とんでも、ありませんっ。俺の方こそ、すみません……」


「さっきの音なら仕方ないさ。七日間も飲まず食わず……。ひいてはそれ以前も、食事と呼べない雑多な代物で空腹を誤魔化し続けてたんだからね。むしろ、健康に近付いている証拠だと思うよ、俺は」


 腹の音を、致し方ないと片付けてくれるミスウェル。過去の内情を鑑みて、ラルズに優しい気遣いを向けてくれる彼には、本当に頭が上がらない。感謝の念は救われたその瞬間から天井知らずであり、同時にラルズの申し訳なさも比例して膨れ上がってる。


「そう言ってくれるだけで助かります……」


 気遣いを通り越し、介護に至りそうな域にあるラルズの立場。もうやらかしてしまったものは戻せないし、これ以上粗相をしないように気を付けることに。


 自省もそこそこに、ラルズは再びちらりと視線を移す。ずらした視線の向き場はラルズのために用意してくれた料理たち――ではなく、ミスウェルと一緒に入室してきた、男性老人の方へだ。


「――お初にお目にかかります、ラルズ様」


 視線に気付いた老人が温和な表情を浮かばせ、腰を折り軽く会釈する。ただの会釈という行為一つからしても、その人物の人となりが形となって表れており、作法に疎い素人のラルズですら、その道を歩んで洗練された者なのだろうと一発で理解してしまうほど。


「当家――こちらにおらすミスウェル様の執事であり、屋敷全体の維持管理を任されております、アーカードと申します。以後、お見知りおきを」


 丁寧な言葉遣いと振る舞い。ラルズが感じた静かな迫力の訳が、先に名乗った己の役職がそのまま理由として伝わる。


 年齢は恐らく六十代後半。色素の薄い白髪に、年齢を象徴する顎の白髭と顔の皺模様。どちらも老人という言葉を体現するのに十分な要素を示すが、当の本人からは老人に該当する細々しさはまるで感じない。


 仕立ての良い白を基調とした執事服と、白とは正反対の黒のズボンで身を包んでいる。極端な色別の服装に衰えない確かな気骨さと、太い芯が大木の幹のように据わっている、従者としての静かな威厳。


 老人や老躯などと、字面だけの旨に過ぎない。立ち姿一つとっても、貫録さえ覚えてしまう。年季の入った静かな威圧感が細い体躯から迸っており、高齢などという評価は不適切なのではと逆の心配が勝る。


「よ、よろしくお願いします、アーカードさん」


「はい、こちらこそよろしくお願い致します、ラルズ様」


「ら、ラルズ様……?」


 普段呼び慣れない、目上の方を尊重する呼び方を続けられ、ラルズは少し困惑気味だ。


 アーカードと呼ばれた執事は困惑を拭えないラルズに対して「はい」と応じると、


「ミスウェル様が保護したお客人であれば、私にとっては主君も同義です。遣える主君と同等の敬意をラルズ様に。貴方様だけでなく、シェーレ様とレル様にも同じ想いです。・・様づけは、こそばゆいですか?」


「違和感が凄くて……」


 家族以外との交流が皆無に等しいラルズが、普段他者から呼ばれる名前として、基本に位置するのは当然、家族が主流だ。


 シェーレとレルからはそれぞれ「兄さん」「兄貴」。両親からはそのまま名前を呼ばれ、ミスウェルの「ラルズ君」も新鮮ではあるものの、変に引っかかる部分はない呼称だ。


 様――が指すのは、単純に目上の人物だったり、仕えている主君に対しての忠義と敬意を示しているのは重々承知している。逆に、それを理解しているからこそ、様を後ろに付けて呼ばれることに対し、一定の戸惑いが生まれている状態だ。


 ただ――、


「アーカードさんの言う通り、少しこそばゆい感じはありますけど……嫌いだったり、受け付けられない訳じゃないです。余計な口を挟んじゃいましたけど、そのままの呼び方で大丈夫です」


「作用でしたか。・・では、今後もラルズ様とお呼びさせていただきます。許可を頂き、大変恐縮です」


 再び、優雅に一礼をするアーカード。


 勿論、ラルズをラルズ様と呼ぶことも、執事としての習わしの一環であり、徹底している作法の一つであることは把握している。


 特別な響きではあるが、それは執事としての誇りある矜持に乗っ取った礼儀。礼儀に沿い、礼儀を重んじる彼の行動の深さと、高い志しを掲げる彼の信念に、恥じらいなどという感情は無粋でしかないだろう。


 尽くし、磨かれ続けてきたアーカードの執事道に一石を投じてしまったが、様付けがそのまま生理的嫌悪を示すわけでもない。結局のところ、ラルズの慣れの問題でもあるために、徐々に呼び名に適応するのが一番であろう。


「改めて、よろしくお願いします、アーカードさん」


「こちらこそ、宜しくお願い致します、ラルズ様」


 ラルズは動かせる右手を伸ばしてアーカードへ。差し出されたラルズの右手を、アーカードも同じ手で応じ、握手が交わされる。


 そうして互いの紹介が済んだところで、


 ――ぐぅぅぅ……ぅぅっ……


「・・・・・・」


「・・ふふっ」


「わ、笑わないで下さい……っ」


「これはこれは、可愛らしい音でしたので、つい。大変、失礼致しました」


 本日何度目かになるかわからないお腹の音。先程よりも顔が真っ赤になるのを感じながら、ラルズは自分のお腹を恨めしそうに睨みつけた。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「――では、一度私はこれで。何かありましたら、遠慮せず頼って下さいね、ラルズ様」


「はい。お料理、頂きますね」


「お口に合いますと幸いです。では、失礼致します」


 そう言い残して、アーカードが室内を退出する。これで、室内にはラルズとミスウェルの二人だけだ。


 やり取りを見守っていたミスウェルは先んじて配膳の準備を進めてくれていた。室内に置いてあった小机を、ラルズの寝台近くに配置し、銀の配膳台の上に並べられた料理の数々を小机へと移し並べる。


「腕は大丈夫かい? もし辛いなら――」


「いえ、足と比べれば腕の方は動かせるので、大丈夫です」


 両手を閉じて開いてを繰り返すが、支障は感じられない。


「そうか。なら良かったよ」


 両手の動きを前に、ミスウェルが柔らかな眼差しをラルズに差し向ける。


 まだ一人で歩くには厳しい状態。身体の向きを変えたりといった足を酷使しない程度の動きであれば、時たま痺れたるすることはあり、感覚が迷子に近いものの、迷宮の中に放じ込まれている訳ではない。次いで、両腕の方もぎこちなさが付随しているが、料理を頂くことに関しては平気な域だ。


 身体を小さく回転させるように右へ九十度動かし、並べられた料理の前へと身体を正面へ。


「――っ……」


 小机の上に並べられた料理の数々は、意図せず匂いが鼻孔をくすぐり、口元からはだらしなく涎が零れるのを防ぐので精一杯。匂いに食欲を掻き立てられ、空腹具合が刺激されてか、喉の奥が自然と高鳴ってしまう。


「さ、冷めないうちにどうぞ」


「い、頂きます……っ」


 両の掌を合わせ、食事の挨拶を口にする。挨拶を終えて、ラルズは何から口に運ぼうかと並べられた料理に視線を飛ばす。


 バスケットに積まれた山盛りのパン。湯気が立ち、白くてとろみのある汁の中に、一口大に切られたお肉と野菜たちが沈み込まれたシチュー。歯応え良し、味わい深そうなシャキシャキとしたサラダ。ざく切りしたトマトと半熟状に整えた卵の合わせ炒め。


 何から口にしようかと、順番を問われてるわけでもないのに、料理を口に運ぶ手が及び腰になってしまっている。迷っているその最中にも、食欲の波は強まるばかり。

 

 悩みに悩んだ挙句として、ラルズは用意された銀製のスプーンを手に取り、目的の代物へと右手を近付ける。


 湯気立ち昇り、美味しそうな匂い迸るシチューにスプーンを沈ませ、掬う。


 ――温かい食べ物を頂くなんて、半年ぶりだ……。


 半年間の監禁生活。その間の食事で、心の底から満足した覚えなどどこを探しても見つからない。ましてや、温かい料理など夢のまた夢の話。


 零さないよう、持ち上げたスプーンの下に左手を添えて、ゆっくりと口の方へと運んでいく。極上の宝物でも扱うかのように慎重に、緻密に食事を口の中へと――、


 ――・・・・


 濃厚な牛乳の味が口内を美味しさで満たす。一緒に練り込まれた人参、じゃがいも、玉ねぎら野菜たちの味が溶け込み、それぞれ宿した美味しさが喉道を通り過ぎて胃へと直結。


「・・・・・・」


「どうかな、お口に合うとは思うけど――」


「――っ……!」


 ミスウェルの言葉の途中で、ラルズは別の料理に手を伸ばす。


 トマトと卵の炒め物は、軽く塩を振り味を調えただけの簡単な代物。なのに、トマトと卵の互いの旨味が好相性を呼び起こし、少しの酸味具合が余計に食欲を刺激する。


 サラダは水分を過不足なく含み、噛み締めるごとに爽やかな野菜の味が広がり、留まるところを知らない。


 パンはやや硬めに焼き立てられ、歯と歯が奏でるサクッとした音は耳心地が良いとともに、食欲をそそられる魅惑の調べ。パン本来の風味と、若干焦げを感じる匂いのコントラストが絶妙に同居しており、口にした人物に小麦粉の魅力を痛感させる。


「・・ぅ……っ」


 パンを食す口の動きが止まり、ラルズは咥えたまま動きが静止する。


 カリカリのパンに、液体が流れる。整えられた味の配分にしょっぱさという不和が生じ、濡れた箇所から次第に柔らかさを増していく。・・それでも、食欲は依然として健在であり、ラルズはリスのように食事を頬張り続ける。


「ん、んぅ……っ!」


「・・慌てなくても、料理は逃げないよ。必要なら、お代わりだって要求してくれて構わないんだ」


 食道が食べ物で塞がれ、息苦しさを覚える。グラスに注がれた水をひと息に飲み干すと、再びラルズの食事の手は加速していく。


 最初にスープを口にする際に配慮した手の皿など、それ以降はただの一度も作られない。これまでの食事で培われてきた作法やマナーなど、一口目から既に決壊してしまっていた。


 無我夢中に料理に意識を向けるその姿は、気品さも常識も存在しない。料理にがっつき、手が止まらないラルズの姿は、正に暴飲暴食が如く。注意を受け、叱られても文句など言えはしない、汚い食事風景。


 ・・だが、それを咎める者は、誰もいない。


「美味しいかい?」


「・・は、い……、はいっ。とっ、ても……美味しい、ですっ――!」


「良かった……」


 ミスウェルは怒らない。注意も、叱責もしない。料理への感想を聞いて、その後もただ静観を貫く。


 見守られる視線の中、ラルズは涙が止まらず、ひたすら料理を胃の中へと運び込む。


 半年ぶりの、暖かな食事。塞ぎ込まれていた情が解放されるように、食事に歓喜を震わせて欲を動作で表すラルズ。


 ――今まで食してきた中で、一番の味。


 そう自覚する分には、半年という月日は根強く働き、ラルズの心を涙で満たすには、十分過ぎるのであった。






 

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