第一章幕間 月光の愛


 夜が深まり、一日の境目を優に超えた時間帯。窓から差し伸べられる月明かりが室内を怪しく照らしており、月が二人の人物を見届けている。


 ――ベッドに横たわる一人の女性の姿と、その傍ら、傍に置いた小さな椅子に座りながら眠りにつく一人の少年。


 すぅすぅと、可愛らしい寝息を立てながら熟睡し、だけど眠る前に握られていた小さな掌の感触は熱を保ち続ける。


 きゅっと結ばれた幼子と女性の掌。そんな小さな掌の先へ、母性に満ちた優し気な眼差しを差し向ける。


「――ラルズ」


 名前を呼ぶ。呼び起こす意図は無く、口先だけの小さな熱。唱えられた名前の主に対し、覚醒の助長にも繋がらない、霧散するだけの弱い呟き。


 その呟きは本人に届かないはずなのに、名前を呼ばれた少年の意識に指がかかるかの如く、微かに身じろぐ。声に反応したように見える仕草も、眠りの世界で夢に引き起こされた眠象動作に過ぎず、深い意味はない。


 結ばれた手と手同士をゆっくりと解いて、解かれた指先を頭の上へと伸ばす。頭をゆっくりと撫で始め、掌全体でその感触を味わう。くすぐったいのか、外部からの影響に身体が無意識化で反応するのか、再び身体が小さく呻く。が、覚醒は片鱗すらも見られない。


「疲れてるん……だろうな」


 卑怯な言い方だ。我ながらずるい言葉を送っていると思う。疲労を募らせた要因は他でもない、自分自身のはずなのに。家族に迷惑をかけている自覚をしながら、その不始末を全てこの子に背負わせてしまっている。本当に、卑怯この上ない。


 一日の大半をベッドの上で過ごして、半年間になる。その間の家事や掃除、食事の用意まで、動くのが厳しくなった自分の代わりに、家の状態を維持してくれている。


 ・・妹のお世話まで、何まで全部。


「ありがと、ラルズ。こうして看病してくれてさ……」


 起きている間のお礼でも、ラルズに対するお礼の数は足りないに尽きる。眠っている間――本人が耳にしていない状況ですらお礼を紡いで初めて、その数は基準に達する。


 しかし、その認識は大きな間違いともいえる。毎日の看病に対する感謝の念。それは至極綺麗で、明るい色を帯びた感情のはずなのに。この生活が始まった頃の自分自身は、心は既に黒く染まり上がって完成されている。


「・・嘘をついて、童心を踏み躙って、期待を裏切って……」


 嘘をつき続けて、幼子の純粋な心を傷付けて、果てには希望だけをちらつかせ続けた半年間。いや、正確にはもっと前からか。体のいい言い訳を創り続けた結果か、本物と偽造の間の記憶がごちゃごちゃになり、整合性は既に迷路に彷徨っている。


「嘘で誤魔化して、言い訳を取り繕って、果てには自由を縛って……」


 お父さんの死、お母さんの病気、閉鎖的な世界の秩序。全部が嘘で塗り固められ、幼い子供の真っ白な心に、汚い大人の理不尽を詰め込んで、どす黒い黒を広げていく。抑制して、納得未満の妥協を強制させて、ずっと騙し続けてきた。


 人として、大人として、両親として、褒められるような行いではないと、自覚はしている。自覚をしている分、罪は軽減されるべきであるなどと、下らない世迷言を口にするつもりは無い。


 罪は等しく罪であり、その相手が愛する息子、娘らになるのだとしたら、自分はどうしようもないほど愚かで、屑で、報われることなど一生ない大罪人だ。許してもらおうなどとも思わないし、一生許さなくて構わない。そして――、


 ――そういった負の願いに対して、天寿は見届けてくれている。想いとは別の箇所を、見事に掬い取ってくれるのだ。


「――っ……!」

 

 突然の疼き。慣れ親しんだ苦痛が全身を襲う。


 心臓が悲鳴を上げ、身体が震える。反射的に衣服を鷲掴みにし、皺を生み出しながら必死に奥歯を噛み締める。発作として引き起こされる、奥底から主張する痛みの根源。


 苛まされ続けてきた半年間。この傷が影響して、半年間はベッドの上が定位置として確立されている現状。静かな場所に腰を下ろしている身のくせに、日毎に荒い呼吸の頻度が増加していく。


「――か、は……っ、はぁ……っ!」


 心臓を直接握り潰されるような激痛。誇張抜きに、呼吸すらもどこかへ置いてけぼりにされる。激痛の世界を凝縮して味わわされているような錯覚に陥り、世界の時間と自分の自分が齟齬を引き起こす。


 冷や汗が大量に生成され、嗚咽感と吐き気が喉の奥で同時に合唱を行い、宿主をこれ以上ないくらい苦しめる。


「・・ほん、とっ。もっとお利巧さんに、なってほしいもんだ……っ!」


 制御下にできない、崩壊していくだけの限りある肉体。


 落ち着き、痛みに屈服しない代わりに悪態をついて立場を譲らない姿勢。半年間の間に覇気は薄れていき、威勢と反骨真だけは今でも鳴りを潜めていない。が、そこが限界であることを、私だけは知っている。


「半年間――ここらが、限界なんだろうな……。・・ったく、もっと進行を抑えて欲しいもんだよ、本当に」


 ため息をつき、自らの顛末を嘆く。身体の調子具合からして、医者でもない身の内でも死の淵は些か感じ取れている。命日と呼ばれる主日の訪れは毎日の経過とともに刷り込まれ、死の気配は朧気ながらに死を自覚させる。


「――いや、……か?」


 尺度の違い、認識の違い。個人差によって捉え方の変化は多種多様だ。半年間という時の流れも、見方によっては長くて短い。


「家族と過ごしているときは、一年が短いんだけどなぁ。・・ったく、本当に時の流れってのは、残酷で慈悲深いよ」


 楽しい時間ほど早く、辛い時間ほど遅く。これも尺度や認識によって前後するが、個人的には時の流れには因果が作用しているとしか思えない。


「神様でもいるなら、もう少しぐらい猶予を下さいよってね。・・罪まみれの女には、出過ぎた願いか……」


 もし神様がこの世にいるなら、身の程を知れと天誅を授けるかもしれない。いや、天誅なら、罰という形でベッドの上の今がそうか。考えを自らで区切り、自虐して鼻で笑い飛ばす。


「・・それでも――」


 罰ばかりが、自らに与えられた代物じゃない。不幸は確かに今降り注いでいるけれど、不幸とは反対の幸運だって与えてくれたんだ。


「・・ラルズ、シェーレ、レル……」


 眠りこけているラルズ。違う部屋で仲良く眠っているであろうシェーレとレルの二人。


 神様からの贈り物は、何も罰ばかりではない。しっかりと、祝福も授けてくれていた。他の何物にも変えられない、大切な宝物。どんな宝石よりも眩しく輝く、最愛の息子と娘ら。


「ラルズ。シェーレとレルを、お願いね……?」


 ラルズは立派な兄だ。きっと、お父さんとお母さんがいなくなっても、しっかりと二人を支えてくれるだろう。


 責務を放棄し、その役を自慢の息子へと与える。無責任と揶揄されても反論の一言すら出ない、正に両親失格と言える。


「ラルズたちを残して――愛する息子と娘らを残して、こんな形で別れてしまうのなんて、本当に最悪」


 託された想いすらも無下にし、拠り所たる自らの役目すらも遂行できない。


 未来を摘み取られ、子供たちと同じ未来に行けない己の因果を、認めたくない気持ちが胸中に充満していく。・・だけど、どれだけ願っても変えられない現実が、目の前には広がっている。


「こういうのを確か……運命とでもいうんだっけ?」


 ・・そういう目には見えない力を、人は運命と呼ぶのだろうか。


「逆らえない強制力ってやつか? ムカつくけど」


 頭を掻きながら溜息をこぼす。


 が、乱暴な言い方をしている口とは違って、不思議とその言葉を素直に受け止めている自分がいることに驚いている。


 もう間もなく、運命によって命が終着を迎えるのに、心は酷く安心している。


「未練沢山、後悔だらけのくせにな」


 やりたいことなど無限にある。愛する子らの将来をこの目で映したい。自分たちの我が儘で閉じ込めていた森の中じゃなくて、外の世界を一緒に見て周りたい。大人になって、やがて親元から離れるその日まで、愛情を日毎に注ぎ続けてあげたい。


 ・・三人の記憶に、もっと自分の存在を刻んであげたい。


「今考えると、後悔だらけの人生かもな……」


 が、間違っていたとは思っていない。別の選択肢や、こういった道を選ぶこともできたのではと、ある種の迷いや踏みとどまりが全く無いとは言わない。後悔は、選択に必ず付随する代物。


「・・でも、満たされた」


 あの日の選択があったからこそ、今の自分がここにいる。そのことについて、大きな後悔を抱いたことは一度も無い。


「――……ぅ」


「ん?」


「・・・・ぉ、とぅさん、ぉかあさ……んっ」


 寝息、寝言。夢の中で、家族と一緒の時間を過ぎしてくれているのか。ラルズの口から、両親の呼び名が紡がれる。


「・・ごめんね。これ以上、一緒にはいられない」


 静かな別れ。きっと、次にラルズが目覚めたとき、傍らにもう自分はいられない。後から目覚めるシェーレとレルにも、何か言葉を託すでも、想いを託すこともできやしない。


 眠るように死んで、目覚めた三人を悲しみの淵へと追いやってしまう、死への旅立ち。


「ラルズ、シェーレ、レル」


 これだけは、眠っている間にでも、届いていない間にも伝えなければならない。両親としての、最期の贈り物。


 名前を慈しみ、唱えた人物らに届ける、最期の愛の言葉。


「ありがとう。お母さんを、お母さんにしてくれて。お父さんを、お父さんにしてくれて。・・お父さんとお母さんのもとに、産まれてくれて……」


 声は届かないかもしれない。それでも、想いが届いてくれていることを信じる。


 母親としての最期の言葉を口にし、世界は一人の命を摘み取る。


 誰にも気付かれずに、静かに――……。


 




 


 


 


 


 


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