第一章6 誰にも届かない

「・・今日が、多分三日目……」


 窓も無い室内からでは、外の様子を確認することは不可能に近い。太陽が昇っているのか、月が昇っているのか、ましてや時間帯も知ることも叶わない。


 体内時計も正確ではない。所詮は感覚の類。特別その機能が卓越しているわけでもなく、ラルズが口にした通り、日数の経過具合は多分としか認識を通せない。


 ――が、それでもこの半年間、玩具役として肉体を虐め抜かれた経験則が嫌でも働いてしまう。


 痛覚の引き具合や眠りについたタイミング。習慣化されてきた檻での行動――その生活が、ラルズに必要のない予知能力を与えていた。


「配膳も無かったし、それ以上は今まで間隔が空いた例外は一度も無い。趣向を変えたなんてのも、きっと……」


 人間は三日間何も食べずにいると死に至ると、両親に教えてもらったことがある。


 一般的な人間の生命境界線は三日間と定められている。が、これはあくまで生命関係の情報。厳密には生存率が三日を超えたあたりで著しく低下するらしいので、中にはそれ以上持ち堪える人もいるだろう。


 水分を体内に摂取すれば、食べ物を口にしなくても三日間以上生存できるらしく、餓死の心配は大分遠ざかるらしい。勿論、そんな生活が続けば身体が崩壊していくのは火を見るよりも明らかだ。


「・・あいつが、餓死なんて選択するわけない……。折角の玩具を、お気に入りを自らの手以外で手放すなんて、絶対に」


 そこに関しては、歪で強い信頼をラッセルに抱いている。狂気の中に潜んでいるこだわり。その根底は邪悪で醜悪に染まりきっているが、絶対の指針を抱いている。


 悪事に――自らの行いに絶対的な規則を定めており、それを遵守している。腐りきっている芯の内側。その腐敗しきっている魂には、譲れない強い意志が備わっていると、ラルズは知っている。


 ――皮肉でしかない。半年も苦しめられてる相手を、信頼しているなんて。憎み続けている男のことを、ここまで深く把握しているなんて……。


「はは……馬鹿みたいだな」


 乾いた笑みが室内に木霊する。頭を抱え、己の馬鹿さ加減に呆れてしまう。普段ならこんな弱気な発言はしない。が、今この室内にラルズの独り言を耳にする人物はいない。


「――……」


「――……」


 両隣には、ラルズに身体を預けて眠っている、シェーレとレルの姿。


 すやすやと、可愛らしい寝息を立てながら、二人は夢の世界を堪能している。


 眠っている間、人は必ず夢を見ているらしい。自覚の有り無しに関わらず、眠りについた人間は、何らかの夢を体験しているとのこと。


 もっとも、夢の名残が記憶に定着しているかはわからない。無意識の世界の狭間に迷い込めるのは、夢の気紛れ次第だ。神のみぞ知るならぬ、夢のみぞ知ると言える。


 夢には種類があって、その中でも「これは夢だ」と自覚できる夢のことを、世間一般では明晰夢と呼ぶらしい。実体験こそないが、夢を自由自在に操ることができるとか。


 好き放題夢の一時を謳歌できるなど、羨ましい限りだ。文字通り、夢が広がっている。


 ・・今頃、二人はどんな夢を見ているのだろうか……。


「幸せな夢を、見てくれてるといいな」


 願望。しかしその反面、幸せな夢を見ている分、現実を前にしたときの反動は大きいだろう。落差が大きければ大きいほど、天秤は傾いて重く圧しかかる。


 それでも、夢の中ぐらい幸せな時間を味わっていて欲しい。救いのない現実からの唯一の逃げ場所は、夢の中しかないのだから……。


「・・できれば、シェーレとレルが眠っている間に、事が終わってくれるといいんだけどな……」


 二人とも寝ている間に、意識が現実から離れている間に、あの時間が終わって欲しいとラルズは願う。先日、シェーレとレルの胸の内を――抱えている代物を耳にして、猶更負い目を感じて欲しくないと思った。


 シェーレとレルは優しい女の子だ。責任を感じなくていいと、自分のせいじゃないと説いたところで、二人は今までと一緒で責任感を強く自覚してしまう。


 慕ってくれて、心配してくれるのは嬉しいし、心根の優しい二人の美点であることに変わりはない。それでもラルズは妹を責める気なんて更々ないし、負担だとか、迷惑だとか、思ったことなど一度も無い。


「傍にいてくれるだけで、十分なんだよ……」


 愛おしさを呟きに乗せる。


 本心だ。心からの本音だ。傍にいてくれるだけで、他には何も望まない。絶望に堕ちそうな心の淵で、シェーレとレルがそこにいるだけで、それだけでラルズは救われる。


 腕の中で眠っているシェーレとレル。二人を見やり、ラルズは――、


「・・もし、ここから出られたら……」


 シェーレとレルも、こんな劣悪な状況から逃げることができれば、どんな大人になるのだろうかと、仮の妄想――有り得もしない未来を想像する。


 今は兄を慕ってくれているが、成長して大人になるにつれて、ウザがられるかもしれない。俗に言う、反抗期と呼ばれる時期に突入して、「キモイ」とか「関わってこないで」とか、言われるかもしれない。


 勿論、今の姿からは想像もつかない。大人になっても変わらず、「兄さん」、「兄貴」と呼んでくれて、変わらず信頼を寄せて貫いてくれるかもしれないし、当然そっちの方が望ましい。


 大人になるにつれて、やりたいことができて、女性としてどんどん綺麗になっていって……。二人は可愛いことが確約されているから、男性からのアプローチも多いだろうし、いずれは……恋人なんかもできたりして。


「もしそうなったら、大なり小なりショックは受けるだろうな……。寂しくなるのは間違いないし、下手をしたら数日間立ち直れないかもしれない。でも――」


 兄心ならぬ親心。ラルズは子供であるが、妹には絶大な愛情を注いでいる。妹馬鹿ならぬ親馬鹿が炸裂し、面倒臭い人間になっていくかもしれない。


「二人が好きになった人なら、心の底から祝福するだろうな。ゆくゆくは愛を誓って、結婚して……。・・花嫁姿のシェーレとレルかぁ。きっと似合っていて、可愛いだろうなぁ……」


 着せられてる感なんか微塵も無くて、二人の美しさを最高に――最大限引き上げてくれて、結婚相手の他、参列の人たちを見惚れさせたり。


「二人は、夢とか持っているのかなぁ……。お嫁さんが、そもそも夢かもだけど」


 六歳という幼い年齢だ。未来の可能性などいくらでも広がっており、この時点で明確な夢を抱いている人の方が少ないだろう。


 直接聞いたことはないし、なりたいものも普段口にしていない様子からも、恐らくはまだ未定のままであろう。夢は形を捏ねている段階すら入っておらず、空虚に浮かんで浮いている可能性も。


「夢が定まったら全力で応援するのは当たり前だけど……願わくば・・迷惑じゃなかったら、その夢を手伝ってあげたいなぁ……」


 力が必要なければそれで問題ない。ただ、助けて欲しいと頼まれれば、ラルズは断ること無く、二人の夢を全力で遂行することを、今の内から未来の二人に約束しておこう。


「・・俺も大きくなったら、夢を持ったりするのかなぁ……」


 想像図が、妹から自身へと切り替わる。その展望の行き先は当然検討中。具体的な夢も考えていないし、将来の自分の姿なんて、何も考えられていない。仮にラッセルに支配されていなくても、脳内の大人図は空白に覆われているだろう。


 ――ただ、ラルズが抱いている一つの憧憬。夢と呼べるような大層な代物では決してないが、強く惹かれていることが一つだけある。


 大き過ぎない願いだけど、叶う気が全くしない願い。両親の言い付けを破ろうとする、罰の悪い子供の我が儘。


「・・森の外を……世界を……自分の目で視てみたいなぁ……っ」


 両親が森の外へと出かけて持ち寄ってくるものは、様々だ。日常生活に必要な道具の数々。タオルや食器といった生活用具に始まり、畑を耕す農具やラルズたちの子供服に、執筆された童話集など。


 遊び道具と場所が少ないラルズが特に気に入って目を通していたのは、両親が運んできた本の数々。外で遊ぶ日以外は、結構な頻度で本に目を通していた。それは単に、前述したとおり遊べる代物が少ないからではない。一番の理由は――、


「あの本、もう半年も読めてない……。何度も読んだから内容は頭に入ってるけど、もう一度読みたいなぁ……」


 繰り返し読んだ、お気に入りの一冊。内容は単純で、どこにでもあるような一冊。


 各地を渡った過程で目にしてきた世界。その旅の記録。


 相当年代が古い蔵書なのか、作者名も掠れて名前も知らない。背表紙もボロボロで、中身の文字も所々掠れて、最初は読破するのに苦労もした。


 綴られる文字の羅列。絵も何も挿入されていない、文字だけで完結している品。見る人が見れば退屈という感想が生まれる、何て変哲もない本。


「氷の雪原に、砂漠の土地。宝石の洞窟、花園の楽園っ」


 全部、覚えている。何度も何度も読み返して、飽きるほどにページを捲って。文字を目で追うたびに感動が生まれて、いつか見てみたいという欲求が胸の内を熱く焦がしていく。


 呟く毎に、波紋が広がる。熱望、渇望、そんな言葉じゃ収まりきらない、世界への憧れ。


 ・・同じ世界にいるはずなのに、その世界にラルズは存在しない。


「――っ……ぅ」


 口から唱える度に、感情を抑えられない。涙が本人の意思とは関係なしに生まれて、シェーレとレルに滴が跳ねかかる。


 ・・ラルズは弱い人間だ。痛みや恐怖に耐性がある訳でもない。力も無力に等しくて、特別他人よりも知恵が秀でているわけでもない。勇気と呼べるような大層立派な意志も持っていない。


 溜め込まれてきた。小さな身体に、大きなものを背負って、吐き出す方法など、こんな方法しか思い出せない。蓄えられた負の感情は、やがて内に留められず――、


「・・辛いよぉ……っ! 父さん……母さ、んっ……っ!」


 ――定期的に、声に上乗せしてむせび泣く。


 口にされるのは、妹には決して見せられない心の弱音。両親の死から、奥底に隠し続けてきた、本当の兄の姿。己の弱さを誤魔化し続ける、矮小な生き物。


 強くなんかない。強く在ろうとするだけの、見せかけの兄の虚像。


「誰か、誰かぁ……っ。俺たちを、助けてよぉ……っ!」


 吐き出すことでしか、解消の術を持たない。他の手段など存在せず、一人舞台の上で、少年は静かに想いの嗚咽を繰り返す。


 ――少年の叫びを、耳にする者は一人としていない。愛する妹にも、ラルズたちを虐げる狂人にも、大好きな両親にも……誰にも届かない。


 救いを求める声は、祈りは、願いは――終始誰にも届かない。


 ラルズにも、誰にも――


 


 

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