第一章5 兄妹

「――っ……、ぁだぁ……!」


 ・・暗闇の底で沈殿していた意識が、すすり泣く声に呼応し、意識に直接語りかけてくる。空っぽの肉体の代わりに、奥底で眠っていた無意識の欠片が反応を示し、やがて意識の欠片は一つの集合体へと形を成す。


「――、――・・、ぅ……っ?」


 閉じられた瞼が、宿主の覚醒に応じて暗闇のカーテンを開ける。目を覚ました瞬間、反射的に開かれたカーテンの先に広がる景色は薄暗い。


 意識が目を覚ましても、眠っていても、広がる明るさの明度はさして変わらず、暗いまま。まるでラルズたちの行く末を――未来を暗示しているようだった。


 目を覚まし、身体の各所に感触を感じる。腕の感触、冷たくて透明な滴の雨。視線を動かすと、泣きながらラルズの身体に治療を施している、シェーレとレルの姿があった。


「・・ありがと、ね……。シェーレ、レル……っ」


 ラルズの感謝を受け、治療に専念していた二人が一瞬で反応した。


「――! 兄さんっ!」


「兄貴、良かったよぉ……っ!」


 目覚めたラルズに安堵し、決壊寸前だった涙腺の壁が完全に崩壊。身体に抱き着かれ、衝撃でラルズの肉体が痛みを報せるが、その報せを無視して肉体に命令――シェーレとレルを抱き返した。


「・・気ぃ失ってたんだね、俺……っ?」


 呟いたラルズの一言に、シェーレとレルも無言のまま頷き返答。


 記憶を失う直前の記憶は鮮明に覚えている。暴走したラッセルに首を絞められ、そのまま意識を手放したのだろう。そう考えると、シェーレとレルが身体を気遣っていた状況にも納得できる。


「気を失ってた俺に、傷の手当てをしてくれたんだよね……?」


 再び、二人とも無言で同じ動作を行いラルズの言葉を肯定する。


「あり、がとね……。シェーレ、レル」


 お礼を口にし、二人の背中に置かれた両手に力を込め、背中をポンポンと優しく叩く。治療もそうだが、兄想いの妹が傍にいてくれて、ラルズはそれだけで救われる。


 シェーレとレルも、涙が止まらない。抱き締める二人の体温が直に伝わり、ラルズの涙腺も愛おしさに充てられて綻んでいく。


 ――二人がいてくれる……。傍に、いてくれるっ……。俺は、幸せ者だな。


 そんな場違いな幸せを実感していると、


「・・どうして……っ」


「シェーレ?」


「どうして兄さんは……私とレルに、何も言わないんですかっ?」


 何も言わない、とは一体……。返答の帰ってこないラルズに対し、顔を埋めたまま再びシェーレが口を開いた。


「傷ついているのは私たちのせいでもあるのに、どうして……っ」


 それは、連れていかれる直前にも少し話した内容だった。そのとき、ラルズは確かに、この傷の責任は二人にはないと告げたはずだ。


「・・言ったでしょ。この傷は、シェーレとレルのせいじゃないって」


「誤魔化さないで下さい……っ。本来なら、私たち三人がそれぞれ受けるべき傷を、兄さんは一人で請け負ってる」


 確かにシェーレの言う通り、本来ラルズに刻まれている傷の数々は、シェーレとレルにも与えられる予定だった。


 妹に危害を加えさせないようにラルズは考えた。考えた結果として、ラルズはラッセルに一つの提案をした。


 ラッセルの玩具役を、ラルズ一人で受けると買って出だのだ。その代わりとして、シェーレとレルには一切玩具役をやらせないで欲しいと頼んだのだ。


 断られる可能性も十分考えられたが、ラッセルはラルズのお願いに快く応じた。身を差し出す交換条件として、シェーレとレルは呼び出さないと彼は確約し、それは半年間遵守され続け、守られ続けている。


 ――無論、耐え切れずにラルズが死ねば、その約束は死んだ時点で反故が確定する。死者に口は聞けず、約束を結んだ張本人が息絶えれば、あとは介入もされず好き放題だ。


「何度も言うけど、この傷は二人の責任じゃない。全部ラッセルの――」


「違うっ!」


 シェーレの拳が強く握られ、ラルズの血塗れの衣服に皺が生まれる。力は緩まれず、その力の源泉は憤り。その怒りの源は他でもない、握り拳を作り出しているシェーレの心によって生み出されている。


「兄貴があたしたちを庇って、傷ついてるっ。あたしたちは立ち向かうことも、助けることもしないで、何もしないで兄貴の帰りをここで待ってるっ」


 シェーレの己を嘆く気持ちの一部が晒され、感化されてレルも拳と口に熱が伝染する。己を責め立て、自分たちの罪を告白していく。


「兄貴の怪我はあたしたちのせいでもあるっ! あたしたちのせいで――!」


「悪いのはラッセルなんだっ。この傷は、シェーレとレルが悪いことなんて一つも――」


「「違うっ!!」」


「――っ」


 二人の怒号が重なる。顔を上げ、目から大粒の涙が流れ落ちていた。鼻水も垂れて、綺麗で可愛い顔がぐしゃぐしゃに崩れていた。


「兄さんが傷つくのを、もう見たくない――! 他でもない、私たちのせいで傷つくのは、耐えられないっ! 助けたいのに、助けたいのに――!」


「身体が、怖くて動けないっ! 兄貴みたいに勇気も無くて、自分可愛さに身を守ってっ。お母さんもお父さんも亡くなって、協力して助け合わないといけないのに、兄貴にばかり縋って、頼って、何もっ――!」


 ・・守られ続けるゆえに生じる実害。助けられない不甲斐なさ。何もできない無力さ。そんな罪の意識を常に、シェーレとレルは抱いていた。


 ラルズがラッセルの仕打ちに苦しんでいる間に、シェーレとレルもこの部屋で苦しみ続けていた。兄を守れない己に、兄を助けられない自分たちを、心の底から嫌悪して。


「兄さんの傷は、わたしたちが与えているようなものですっ……。あいつじゃなくて、私たちが兄さんを傷つけて、死に追いやってる……っ!」


 シェーレの膝が崩れ、その場に力なく座り込む。口元に手を当てて嗚咽を繰り返し、自らが兄を苦しめている要因であると、信じて疑わない。


「いっそのこと……あたしたち二人とも、死んだ方がいいのかもしれないっ。生きてる方が、兄貴に害を与えてる。最近は、そう思うようになったっ……」


 自己嫌悪が悪い方向へと向かい、ついには自身の命すら危険な見方をし始めるレル。兄を苦しめる存在だと認識し、果てには最悪の考えを口に出している。


 二人とも、傷ついて部屋へと戻されるラルズを前に、ずっと苦しんでいたんだ。自分の為……という兄の想いを鑑みていて、それに対して余りにも非力で。


「もう、嫌だよぉ……っ。お父さんもお母さんも、あたしたちを置いて死んじゃった。半年間ずっと苦しんで、苦しめて……もう、嫌だぁ……っ!」


 ・・閉鎖的環境。玩具という名の遊び道具。劣悪な状況下と、情緒と道理が狂っている、最悪な化け物の独壇場。ラッセルの毒牙は着実に、確実に三人の命と心を侵食していく。現実逃避を願っても、責められる道理などある訳がない……。


 支配され、苦しめられ、抱く必要のない偽物の罪悪感が実ってしまい、果実は抱えきれないほどの大きさとなってしまった。膨れ上がった果実は爆弾となって爆発。想いの丈を全て打ち明かす。


「シェーレ、レル……」


 妹二人の抱えている代物が、全て赤裸々に公開された。胸の内の本音を、全部――。

 

 正面から受け止めて、ラルズは――、


「・・やっぱり、俺たちは兄妹だね……」


「――え?」


「・・・・何、言って……?」


 場違いな感想、とでも思っているのだろう。何を言っているのかと、シェーレとレルも先の怒りが嘘のように困惑し、困惑に乗じて激情の産物でもある涙が目元で震える。


「今、シェーレとレルが言ってくれたこと。俺も同じだよ」


 何も変わらない。ラルズも、シェーレとレルと何も変わらない。


「勇気なんて持ち合わせていない。ずっとラッセルが怖くて、いつまでも怯えが消えない。逆らおうとしても、植え付けられた恐怖に邪魔されて、睨まれるだけで身体が竦んじゃう。・・半年間、ずっと……」


「あに、き……?」


「シェーレとレルが俺のことを守れないって悔やんでいるけど、それは俺も同じ。兄お兄ちゃんなのに、護らないといけない立場にある俺が、シェーレとレルをこの地獄から解放させてあげられないことに、ずっと苦しんでた。今も、ずっと……」


 涙を流す妹を救えない。助けを求める妹を救えない。二人だけでも、この檻から外へ逃がしてあげたい。そんな兄の願いはいずれも通用せず、現状維持を貫いてしまっている己を、ラルズも激しく憎んでいる。


 護ることはできても、救うことができていない。腹立たしく、無力極まりない自分が、情けなくて仕方がない。自己を犠牲にするだけで、何も状況は改善されない。


「小心者で、弱くて、ちっぽけで、臆病で、愚かで……。慕ってもらえる器量さも、ましてや助ける力すらも、持ち合わせていない」


「そんなことないっ! 兄さんは……兄さんはずっと……っ! 私たちのことを考えて、大切に考えてくれてる。昔も今も、ずっと――!」


「そうだよ兄貴……っ。ずぅーっと、兄貴はあたしたちを守ってくれてるのにっ! あたしたちは、何もできてなくて……っ。でも、兄貴は違うじゃん!」


 自身を嘆くラルズの独白を、シェーレとレルの二人は否定する。先と今では完全に立場が入れ替わっており、妹二人は兄を慕う数々の言葉を組み合わせる。


「ずっと守られてばかり……っ。私たちはお荷物でしかなくて、負担ばかり増やして、その結果が兄さんの傷なんですっ!」


「兄貴のことが大好きなのに、大好きな気持ちとは反対に、あたしたちはずっと兄貴に守られ続けて――」


「それで、良いんだよ」


 再び、シェーレとレルの時間が固まる。呆然としているラルズは、二人に微笑みを見せると、二人に手を伸ばす。


 伸ばされたラルズの手。シェーレとレルがおずおずと応じて、片方ずつその手を握る。互いの手が繋がり、温もりが、鼓動が、手を通して伝わってくる。


 シェーレの感情も、レルの感情も、ラルズの感情も。全部混ざって、伝わって、安心する。


「護られ続けるのは、何も悪いことじゃない」


「そ、んなことっ、そんなこと……っ!」


「だって――シェーレとレルは妹なんだから」


 身体は限界で満身創痍。精神も擦り切れ続けて疲弊困憊。無限に続いていく地獄の時間。救いの可能性すら谷底へ既に落下しており、希望なんて一筋すら見えない。現実は非常で、どこまでも破滅の道が敷かれている。だけど、


 ――シェーレとレルがいてくれるだけで、宝物が傍にいてくれるだけで、抱き締めて確かな「愛情」を感じられるだけで、俺は救われる。


「シェーレとレルの笑った顔が大好きで……。愛称で呼んでくれるのが愛おしくて……。隣にいてくれるだけで――傍にいてくれるだけで……それで」


「兄、さん……っ」


「あに、きぃ……っ」


 微笑んで、繋がれた両手をぎゅっと握る。


「護るのは兄の役目で、護られるのは妹の役目なんだから」


 産まれたラルズと、ラルズのもとに産まれたシェーレとレル。「兄」と「妹」、そして「兄妹」となった三人。


 その瞬間から、ラルズの辞書に刻まれる新たな普遍性。


 木から切り落とされた果実が地面に落下することと同じように。ラルズの世界に、新しい世の常識が付け加えられる。


 妹を――シェーレとレルを、命を賭して護る。他でもない、兄であるラルズが。


 それが本当の意味でラルズの世界に反映されたのは、母さんが亡くなったあの日。あの日に、ラルズは誓ったのだ。


 父さんに――。母さんに――。シェーレとレルに――。そして、


 ラルズ自身に――。


 狂愛……。そんな単語が当てはまるかもしれないが、ラルズは構わない。誰に気色悪がられようとも、シェーレとレルに嫌われようが、絶対にこの誓いを曲げはしない。


 ラルズの世界は、シェーレとレルが全てである。それ以上もそれ以下も無い。二人はラルズにとって光そのもの。失われれば……傍から光が失われれば、ラルズは生きる意味を失う。


 その光が失われる日が来たとすれば、その時は――、


 

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